High Tech & Low Life

アイダカズキの(主に小説用)ブログです

貫通、抽出、災厄

赤煉瓦敷の歩道が左右に並ぶ大通りは早くもクリスマスソングを流し始め、街を行き交う人々も既に冬の装いだった。街頭のプロジェクタはどれも今のうちにクリスマスの準備をしないとひどいことになりますよというCMを流していた。何をどれだけ準備してもひどいことになるんだろうに、と相良龍一は思いながら、路肩に停めたワンボックスカーのドアを開け、ビニール袋を差し出した。

「買ってきたぜ」

シートを倒して後部スペースを広げ、装備の最終チェックをしていた望月崇が袋の中身を見て胡乱な顔になった。「よりによってサブウェイかよ。腹膨らませるだけならマクドで充分だろうに、お前は腐れロハス女か?」

「好きなもん買ってきていいって言ったのはそっちだろ」言い返しはしたが、どうせ崇も本気で嫌がっているわけではないとはわかっていた。案の定、崇がさっさと袋の中から掴み出したのは、たぶん彼ならこっちを選ぶだろうと踏んでいたローストビーフサンドの方だった。龍一は黙って自分用に買ったチキンバジルサンドを取り出す。かくして世界は今日も平和というわけだ。

「食い終わったら行くぞ」

「ああ」

しばらく、2人は黙って口を動かした。龍一はチキンとレタスの歯応えを充分に楽しみ、崇も神妙な顔で――食べる時のこの男の癖である――黙々とサンドを胃に詰め込んだ。季節は晩秋、吹く風はすでに半袖だと冷やりとするほど冷たい。夏でなくてよかった、とこれから着込む「服」のことを考えて龍一が秘かに安堵した時、懐のスマホが振動を伝えた。瀬川夏姫からだった。

【お疲れ様。『野蛮人の儀式』は順調かしら?】

「今、鶏の血を顔面に塗りつけたところだ。聖なるヤドリギの前で牛を屠るのはこれからだな」

【その返し、面白くない】

振ってきたのはそっちだろう、と言おうとしてやめた。「君は君で研修中なんだろう? 百合子さんの」

【そ。私にはあなたや望月さんみたいな棍棒はないもの】

「ふむ、棍棒か」

【なんで感心するのよ】くだらないことを言ったら締めるからね、と言わんばかりの地獄の底から響くような返事が来た。【お祭りだからって羽目を外しすぎて、百合子さんからペナルティをもらわないようにね。じゃ、儀式の成功を祈ってるわ。けだものの師匠によろしくね】

切った途端に、崇がこれ見よがしに溜め息を吐いた。「あの小娘、タメ口どころか女教師みたいな口を利くようになってきたな。一度、下の毛をむしってやった方がいいんじゃねえのか」

「黙れよ」

横目で睨みつけると、崇は肩をすくめた。「悪かったよ。お前はむしられる方が好みだったっけな」

龍一は黙って食べ終えたサンドの包装を紙袋に叩き込んだ。この程度の減らず口に返事していたら日が暮れてしまう。

「よし、始めるぞ」崇は指先を丁寧にナプキンでぬぐってから傍らのタブレットに指先を走らせた。「左前方、『中富ビル』の看板が見えるな? 今日のターゲットはあそこの5階『シャイニングマネジメント』、いちおう真っ当な金融会社の看板を掲げちゃいるが、実際は『鬼蛇連合』ってヤー公も手を焼く半グレどもの巣だ」

「ヤクザよりも質の悪い堅気だな」

「そうだ。盃を受けているわけじゃないから警察のマル暴も手をこまねいているし、実際の業務ときたら個人情報売買やフィッシング詐欺だ。暴対法でがんじがらめの指定暴力団より、よほど小回りが利いてサイバー犯罪にも明るい。さぞかしあくどく儲けてることだろうぜ」

「あくどくて、儲けている。大切なのはそこだな」

「そう、そこが一番大切なところだ」崇は薄く笑った。「前日のうちに、清掃員のふりしてあのフロアに時限装置付きの発煙筒をたっぷり仕掛けておいた。そろそろだな」

正午を知らせるのどかなBGMが大通りに流れ出すとほぼ同時に、目標階の窓から勢いよく白煙が噴き出し始めた。ランチのために付近の商社ビルから姿を見せ始めていたサラリーマンやOLたちが、驚いて上階を指差しざわめき始めた。スマホのカメラを向けて撮影を始める者もいる。

「かっきりだな」

「行くぞ。『本物』が駆けつける前に終わらせる」

ワンボックスカーのスライドドアを開け、2人は街路に降り立った――シールド付き耐火帽にオレンジ色の耐火服、酸素マスク、ボンベまで背負った消防士の姿で。歩くたびに腰に下げたハーケンや消火用の手斧が、がちゃがちゃと音を立てた。

「それにしてもこの耐火服、通販で買ったにしちゃ出来がいいなあ……」

「アメリカから直接取り寄せた、プロ仕様の本物だ」と崇の返事。ヘルメットに内蔵している通信機とマイクのおかげで、会話に不自由はない。「軍用品じゃないから規制もそんなにきつくないしな。まさかフルプレートアーマー着て乗り込むわけにもいかんだろ」

それもそうだと龍一が納得した瞬間、目標のフロアから白煙に続き盛大な炎と轟音が噴き出した。集まりつつある野次馬たちがどよめく。

横目で崇を見ると、マスクの上からでもわかるほど誤魔化し笑いをしていた。

「いやあ……リアリティを増すために発火剤を足したんだが、ちょっとやりすぎたかな」

「『ちょっと』であんなになるかよ……」

 

柔らかなチャイムとともにエレベーターのドアが開き、瀬川夏姫は『ホテル・エスタンシア』最上階に降り立つ。

VIP専用のこのフロアは、名目ともに高塔百合子の占有物だった。天窓からの光が惜しげもなく降り注ぐ、南欧の避暑地を思わせる屋内庭園は何度訪れても見飽きることがなかった。柑橘系の芳香が鼻孔をくすぐり、色鮮やかな蝶が宝石の欠片を思わせる鱗粉を撒いて眼前を通り過ぎる。極彩色の名も知らぬ花々が、空調に合わせて微細に揺れていた。

籐椅子に腰かけて本を読んでいた百合子が、こちらを認め顔を上げて微笑む。傍らの丸テーブルへ置いた表紙に見覚えがあった。ヴォネガットの『追憶のハルマゲドン』だった。

近づくと百合子は立ち上がり、座って、と迎えてくれた。夏姫の方が赤面してしまう優雅な物腰だった。

「学業の方、順調のようですね」

「おかげさまで」当たり障りのなさすぎる自分の返答に頬が熱くなった。かつて夏姫は家の事情――それもひどくややこしい事情から進学を諦めざるをえなかった時期に、百合子の提示した奨学金制度によって救われている。一生かかっても頭の上がらない存在だ――少なくとも夏姫自身はそう思っている。

それと同時に、夏姫は百合子のもう一つの顔――彼女を女神のごとく崇め奉る人々が知らないもう一つの顔、それが進めるある企ての共犯者でもあった。

「本当ならお茶を出して、落ち着いてからにしていただきたいところなのですが」

「おかまいなく。心の準備だったらとっくにできてます。それにあのどうしようもない男の子たちだって、私たちが動かないと仕事を進められないでしょ?」

夏姫はにこりと笑い、百合子も苦笑を返した。「それもそうですね。行きましょうか」

百合子は立ち上がって夏姫を促した。黒の装いに包まれた長身、首筋から背にかけてのラインは同性の夏姫でも見とれる優美さだった。「ちょうど2人が目標ビルに到着する頃合いですね」

「知ってます。顔に戦化粧をして、血まみれの棍棒を手に突撃するんでしょう?」

「ええ。でも私たちにも独自の棍棒とルールがあります。もしかしたら、男性のそれよりもよほどいやらしいかも知れません。それを、これから教えます」

 

「皆さん落ち着いて、落ち着いて避難してください!」 

「はい、すいませんね、ちょっと通りますよ」

上階から血相を変えて逃げてくる事務員やOLをかき分け、龍一と崇はひたすら上階を目指す。皆ハンカチを口元に当てて逃げることに必死で、消防士姿の2人を見とがめる者はいない。もちろんその大半は荒事と無縁な市井の人々で、良心が咎めなくはなかったが、咎めただけだった。

「畜生が、どこの奴らだ!? トイレ掃除した奴ぁ誰だ!?」

「書類から持ち出せ! オマワリどもにあれを見られてぇのか!」

5階へ到着すると一際とげとげしい怒号が渦巻いていた――それもまるで型に嵌めたようなスキンヘッドに黒シャツ、人相に悪い男たちの怒号だった。一際人相の悪い男が、階段を上がってきた2人を見て凄む。

「誰が火消し屋なんか呼びやがった? 失せろ、見せもんじゃねえ!」

「兄貴! こんなもんトイレに仕掛けてありました! ただの煙を吐くオモチャですよ!」

「何だと!?」

兄貴分の男が振り向く、その拍子に崇は横目で龍一に合図していた――時間稼ぎはここまでだ、やるぞ。

「そういやお前ら……消防車のサイレンなんか聞いたか?」

兄貴分がこちらに振り返る、その一瞬の隙に龍一は腰に装着した機器のスイッチを入れ、崇が背のタンクにつながったノズルのトリガーを引いた。

高圧の空気で発射された大量の水の塊が男の腹に炸裂した。インパルスと呼称される、暴徒鎮圧にも使われる放水銃である。至近距離であればバットで殴るのと同じぐらいの威力がある。くぐもった呻き声を上げて前のめりになった男の横面を崇はノズルで容赦なく張り飛ばした。

とっさに子分が内線の受話器を取り上げる――繋がらない。そちら目がけて水塊が放たれた。電話機本体がピンポン玉のように弾かれ、受話器を持つ男の顔面を直撃した。

周囲の子分たちが慌てて懐のスマホを耳に当てる――だが大音量で漏れ出す雑音に耳を押さえてスマホを取り落とす。すでに龍一の背負う酸素ボンベに偽装したECMポッドがビル内に強力な妨害電波を振り撒き、有線無線問わずあらゆる通信を阻害し始めていた。

襲撃の際、必ず押し寄せるはずの増援をどう封じるかが課題だった。物理的に電話線を切断する、中継局を爆破する、などのアイデアを検討したのち、結局は(比較的)穏当な「ECMジャマーを直接持ち込む」という案に落ち着いたのだった。残念ながら携帯式ジャマーの調達が間に合わず、龍一が背負う形になったのだが。

崇が続けざまに放つ水塊が室内を更なる混乱に陥れた。もうもうと立ち昇る水煙にむせる男たちの頭を、龍一は消火用の斧の側面で順番に殴りつけて昏倒させていく。

「何だ、お前ら! カチコミかぁ!?」

顔面に直撃を食らいむせながら無闇にバットを振りかざす巨躯の男、その懐に龍一は斧を捨て、瞬時に踏み込んだ。かさばる耐火服と重たい装備を身に着けていようと関係ない――重要なのは歩方だ。

放った斧が床に落ちるより早く、間近に現れた龍一に男の顔から表情が消える。短い間合いで振り回された龍一の左肘が刃物のように男の脇腹に突き刺さった。げっ、と呻いて前のめりになった男の肩に左手を軽く置き、分厚い筋肉と脂肪に覆われた男の胸元、肋骨の一番下に軽く右手の手刀を突き立てた。

深々と突き入れた。

悲鳴を上げるように男が大きく目と口を見開いたが、微かな吐息と少量のよだれしか漏れなかった。身体を折り曲げ、床に崩れ落ちた。

崇がひっくり返った男の頭を蹴飛ばしながら、耐火服の肩をすくめる。「こいつの筋肉は飾りらしいな。このガタイ、一日や二日でできるもんじゃなかろうにもったいねえ」

龍一はプラスチック製の手錠で、気絶した男たちの手首を戒め始めた。「ムショで鍛え直せばいい」

 

薄暗い、旅客機のコクピットのような部屋を想像していたが、実際には予想よりずっと明るかった。天井自体が発光しているのか、薄緑色の淡い光が頭上でゆらゆらと揺らめいている。BGMはなく、ただノイズに似た音が室内に静かに満ちている。どこかで見たような光景だと思った。しばらくしてここが何に似ているのかわかった――川底から水面を見上げた光景だ。ノイズに聞こえるのは川のせせらぎか。

「意外に明るいんですね」

「暗いと目に悪いですから」冗談とも本気ともつかない口調で百合子は言う。

「いずれあなたにも扱い方を覚えていただきます。今日は、私のやることを見ていてください」

固唾を飲む夏姫の前で、エルゴノミクスデザインのチェアに身を横たえた百合子は右腕を一振りした。どこからともなく湧き出てきたシャボン玉のような無数の泡が掌にまとわりつく。彼女は指を振って泡を弾き飛ばし、その中の幾つかに指先で触れた。よく見ると、泡の表面には光で細かな数字や図形が描かれている。

「まず最初に、アクセスできない情報というものはこの世にはない、と覚えてください」淡々とした口調。「あるとしたらそれは、アップグレードされた最新のOSをインストールされ、24時間365日リアルタイムで軍の一個師団に守られた上にネットから完全に切り離され、溶接された金庫の中に封じられ、しかも電源を切られたサーバーのみです」

「そうでしょうね」

「つまり盗めない情報はこの世にない、ということです。あるとすれば人の頭の中だけですが、私やあなたがそうであるように、人はとても物覚えが悪いものです。重要な情報であればあるほど、整理し保管し、一定のコストを払う必要があります」

「よくわかります」

「それに付け込んでいるのが今回の目標です。個人情報の転売など、微悪・小悪の類には違いありませんが――それは見逃す理由にはなりません。彼らには生贄になってもらいます。あの2人や、あなたへの」

 

人の背丈ほどもある巨大な金庫に向けて龍一が手元のリモコンを操作すると、電子錠の外れる微かな音が響いた。重々しい外見に反し、ぶ厚い金属の扉は滑らかに開いた。

ECMって便利だな……かさばるけど」

「一昔前の型落ちとは言え、れっきとした軍用だ。こいつを買うのに小遣い半分を半分近く使っちまったんだ、役に立たなきゃ困る」

中に積まれている札束は2百万円ほど。金庫の大きさに比べるとそれほど多くなかったが、2人は落胆しなかった。彼らの目的は最初から金ではない。綺麗に角をそろえられた証券の束、そして麗々しい筆跡と印鑑の押された数枚の書類。

「これか……白紙委任状ってのは」

「そ。こいつが手元にある限り、意に背いた会社の資産や売上金を強制的に取り上げることができる魔法の紙だ」

「まさか実印なのか?」

「当たり前だ。でなきゃただの紙切れだからな」

「マジかよ……」

見て龍一は唸った。龍一も名前だけは知っているようなベンチャーIT企業や製薬会社、医療ロボット産業の社名や代表取締役の名が記されている。

「どんな偉い奴でも、いや偉い奴だからこそ叩けば埃が出るからな。女だか裏金だかは知らないが、融資をちらつかせると同時に締め上げる。飴と鞭だな」

「金の卵ならぬ、金玉を握られた状態ってことか……」

「もっともそれもこいつが『手元にある限り』だがな。小回りが利くのをいいことにずいぶん荒っぽく稼いでいたみたいだが、それも今日で店じまいだ」

「こいつをいただいたとして、欲しがる奴なんているのか?」

「いるさ。サインした本人に『お手頃価格』で売りつけるもよし、ブラックマーケットに流すもよし……さ、急ぐぞ。そろそろサツも駆けつける頃合いだ」

崇がバインダーに書類を収め始めた時――背後で物音がした。

反射的に崇の腕を掴み、強く引く。さっきまで彼の首があったあたりを、甲高い音を立てて銃弾が擦過した。窓ガラスに小さな穴が開く。

振り向くと、砕けたサングラスで顔面が血まみれになった男が、震える手でトカレフ銃口をこちらに向けていた。龍一が止める間もなく、崇は大股で歩み寄り、男の顔面を防火ブーツで容赦なく蹴り飛ばした。血の糸を引いて飛び散った歯が床に転がり、妙に軽快な音を立てる。

「危ねえじゃないか。当たったらどうすんだよ、なあ?」

龍一はあえて何も言わず、肩をすくめた。

 

「先ほどの話の続きになりますが」空中の泡の一つ一つに投影された図形や数式に直接触れ、指先で弾き、あるいは引き寄せながら百合子は呟く。

「ここに投影されているのは、各テレビ局で放映されている番組、ラジオなどの音声、ネット上の動画、視聴率・アクセス数、その時間帯や年齢層などです。それらを視覚化・シンボライズしたのがこのシステムです」

「すごいですね」世辞ではなく夏姫は感心した。このような大掛かりな仕掛けを見るのは初めてだ。

「それほどのものではありません。確かにそれなりの時間と予算は必要としましたが、同程度のシステムは少し気の利いた多国籍企業シンクタンクなら導入済みでしょう。……これにまた別の要素を加えます」

夏姫は息を呑んだ。空中に投影される各種データ量が、一瞬にして百倍以上に増えたのだ。しかも今度は老若男女を問わず、様々な年齢層の顔写真やプロフィールが付与している。

「今は未真名市内に限定していますが、全住民の氏名・居住区域・年齢・職業・収入・家族構成、各保険情報や提携金融機関・市民保障番号……そして過去の犯罪歴を含む個人情報です」

夏姫の一分間あたりの瞬きの回数が、倍に増えた。「それがどうしてここで見られるんですか?」

「そう、これらは絶対に知られてはいけないはずの――扱う人々が細心の注意を払って扱わなければならない、決して外部に流出させてはいけないはずの個人情報ばかりです。ですが、見ての通りそうなってはいません」

ひとりでに眉間へ皺が寄るのを感じた。別段、未真名市の行政に特別な何かを期待していたわけではなかったが、百合子の話は今まで彼女が漠然と抱いていたそれらのイメージに比べて、ずいぶんと歪んでいた。「少なくともこの街のシステムには、看過できない大きな穴があるみたいですね」

「残念ですが、その通りです。それについてもおいおい話す必要があるでしょう」

わずかに――ほんのわずかに、躊躇ってから百合子は口を開いた。「〈ハリウッド・クレムリン〉の名は聞いたことがありますか?」

「『黒い銀行』のことですね?」

「そうです。ここにある情報も、彼らとの提携によって入手したものです。弱者を食い物にするような犯罪集団を許さないという点において、私たちと利害は一致しています」

百合子の手首が翻り、幾重に重なる画像を展開させる。「司法機関が無力であり犯罪組織が猛威を振るう現状では、私の活動も非合法あるいは半合法にならざるを得ません。そのすべてを肯定せよとは言いません。あなたには、その一部始終を見届けてほしいのです」

 

「……よし、データの吸出しは終わった」

「こっちも終わりだ」ノートPCから手製ハッキングツールの端子を引き抜いた崇に、サーバーに重い消火用の斧を叩き込んで龍一は返事する。

窓から眼下をちらりと見るとすでにビルの周囲を消防車や救急車が取り巻き、逃げ出してきた人々の救助に当たっている。正面玄関からの突破は不可能だった。

「後は逃げるだけだ。簡単だな」

「確かに簡単だな……」

廊下に続くドアが轟音とともに弾け飛んだ。立ち込める粉塵を掻き分けて、巨大な影が2人分、うっそりと現れた。

「……あいつらがいなければ」

機動隊のような大型の金属製シールドを構えた巨躯が2人、無言の圧力とともに歩み寄ってくる。龍一たちと似たタイプのガスマスクをかぶっているが、上半身は黒のタンクトップ一枚、しかも刺青をびっしりと彫られた二の腕を露出しているのが異様だった。盾の構え方が様になっているところを見ると、本当に元機動隊員なのかも知れない。一人の右肩には刺青で「阿」もう片方には「吽」と彫られている。

「半グレご謹製セキュリティチームか。あんなのをわざわざ飼っとくなんて金あんなあ」

「感心してる場合かよ。あの図体だと、『鎮圧』した後の始末まで請け負ってそうだな」

崇がインパルスを放つ。だが水の塊はシールドの表面で弾け、盛大に飛沫を飛ばす。「阿」がくぐもった呻き声を上げ、盾を大きく振りかぶった。

耳をつんざく破砕音。反射的に横へ飛んだ崇の背後で、盾の直撃を受けたデスクがまるで空き缶のようにひしゃげた。

「吽」が頭上で何かを振り回し始める。何かを両端に結び付けたコードだ。それが投擲武器の一種だと気づいた時には、すでにそれが龍一に向けて投じられていた。

ボーラ、と呼ばれる両端に錘を付けたものだ。回転しながら飛来したボーラは予想外の方向から龍一の足首に絡みつく。たまらず転倒してしまう。

油断した自分を罵る暇もなかった。「吽」が咆哮とともに盾を振り上げのしかかってくる。足首を縛られて自由が利かない。自ら横転し、直撃は避けたが、右肩を盾の端がかすめた。耐火服に守られているはずの肩に激痛が走る。

「吽」は盾を放り捨て、巨大な掌で龍一の首を絞めてきた。突きと蹴りを何発か見舞うが、まるでこたえた様子もない。膂力に物を言わせて龍一の身体を持ち上げ、書類ケースに叩きつける。ガラスが甲高い音を立てて割れ、中のファイルが雪崩落ちてきた。視界が狭まってくる。息ができない。

崇は「阿」が雄叫びを上げて振り回す警棒をかわすのに必死だ、助けは期待できそうにない。これはまずい……。

「誰か残っていませんか!? ……おい、何しているんだあんたら!?」

助けは思いもかけない方向からやってきた。階下から本物の消防士たちがやってきたのだ。首を締め上げる力が緩んだ瞬間。龍一は自分から相手の腕を掴んだ。常人の太腿ほどもある、荒縄と粘土の混合物じみた腕、容易には振りほどけそうにない。

だが龍一の両手の小指は、親指と同じ太さがある。

掴みさえすれば握り潰せる。

なめし皮のようなぶ厚い皮膚に、龍一の指が、完全に均等な圧力でみしみしとめり込んでいく。ガスマスクの奥で「吽」の目が驚愕に見開かれた。掴んでいた龍一の首を放し、一転、掴まれた腕を振りほどこうとする。

龍一に掴まれた者に、それは文字通りの悪手だ。

渾身の力を込めて床を蹴り、腕にぶら下がるような形で両足を跳ね上げた。

まともに蹴りが入った。さすがの「吽」も後方へのけぞる。こちらから頭髪を掴み、衝撃吸収パッドに守られた両膝を顔面に叩きつけた。

地響きを立てて「吽」が大の字に倒れる。必死で横転しながら両足に絡んだボーラを振りほどいた。倒された相棒の姿に「阿」が咆哮し、警棒の一振りでパーテーションを薙ぎ倒した。散乱した備品が消防士たちの頭上に降り注ぎ悲鳴が上がる。

「おいこっち向きやがれ、亀頭!」

振り向いた「阿」の頭を、崇がフルスイングで振り回した消火器が直撃した。バランスを崩した巨躯の足元に龍一は潜り込み、消火用の斧で思い切り足払いした。

よろめく巨体が頭からガラス窓に追突する。ガラス片と悲鳴の尾を引いて、窓の外に大男の姿が消えた。外から聞こえる群衆の悲鳴。見下ろすと、運よく消防車の屋根に落下したらしく、大の字に伸びている。命は取り留めたらしく弱々しくもがいているが、立ち上がる気力はなさそうだった。

思わず大きく息を吐いた拍子に、あっけにとられている消防士たちと目が合った。龍一は黙って目礼し、崇は偉そうに咳払いすると、彼らの肩をぽんと叩いて傍らをすり抜けた。

「どうも、お勤めご苦労様です」

「あ、こら! 君たち、待ちなさい!」

背後で消防士たちの声がしたが、もちろん2人は足を停めなかった。

「まずいな……ジャマーの出力が安定しない。衝撃で壊れたかも知れない」

「修理している時間はないな。まあいい、後はずらかるだけだからな!」

 

「夏姫さんは、『金』を何だと思いますか?」

「金……ですか」夏姫は面食らった。彼女は物心ついた時から金に困ったことはなかったが、世間に起こる大半の悲喜劇が金に起因するものであることぐらいは承知していた。

金。なければ確実に飢えるが、ありすぎれば厄介の種になりかねないもの。人によっては人生の目的そのものになりかねないもの。

食事、だろうか。それとも水? 似ているが、それもまた違う気がする。もっと異なるもの――それがなければ死に至るもの、

「……血液?」

「その通りです」百合子は嬉しそうに笑った。「金とは――システムであり、流れであり、私たちの体内を巡る血液の何割かを確実に占めるものでもあるのです。18世紀生まれのジョン・ロー以降、それを理解できている人がこの世に何人いるかはわかりませんが」

言葉を止めることなく、細い手首が再び翻る。「であれば――市場のそれをコントロールすることは、確実に幾百人の、幾千人の、それ以上の人生を左右することになります。それをまず、忘れないようにしてください」

「はい」

気のせいだろうか――百合子の口調に込められた温度が、ほんのわずかに低くなったように思えた。「命は金で買えます。そして、金は命で買えるのです」

恐ろしい言葉を聞いた気がした。彼女を突き動かすものは――それが何なのか、夏姫も完全に理解してはいないが――慈悲深さだけではないのだ。

「およそ人間的なもので私と無縁なものなど何もない、と言ったのはローマ時代の劇作家でしたが、それと同じく、これまで起こったこと、起こっていること、これから起こることに関して、無縁なものは何一つないのです。私も、あなたも――あの2人も」

 

室外機とソーラーパネルが並ぶ屋上、脱出地点まであと十数メートル。重い装備を引きずりながら走る龍一の耳に、下の路地からけたたましいブレーキ音と怒号が届いた。見ると、黒塗りの大型SUVが3台、野次馬を蹴散らしながらビルの玄関に停車したところだった。

「セキュリティチームの次は緊急対応部隊か……」

「あのデカブツをうっちゃるのに時間をかけすぎたか」

ECMポッドが壊れていなければ到着をもう数分遅らせられたかも知れない――とは思ったが、今さらそれを悔やんでも仕方のない話ではあった。

「ふん、いい位置に停めてくれたもんだ……出血は最小限で済むな」

「おい」

止める間もなかった。崇は真面目くさった顔で、手の中の装置のボタンを押し込んだ。

ぼぅん、というくぐもった音。蹴飛ばされたミニカーのように、ヘビーデューティな大型車の群れが空中へ跳ね上がり、縦に一回転した。群衆がわっと四方に散り、一瞬のち、逆さになったSUVが立て続けに路面に叩きつけられた。乗員たちの悲鳴は金属の潰れる音とガラスの飛散音にかき消された。

「何を間抜けな面をしてやがる?」振り返った龍一の顔を見て、崇は大げさに肩をすくめた。「カーチェイスなんて面倒なだけだろう? 『たったひとつの冴えたやりかた』って奴さ」

「あんたなあ……」

「なぁに、死にはしねえよ。マンホールの裏に仕掛けられる量なんてたかが知れてるし、無関係の堅気を巻き込むとご当主からペナルティを食らうしな」

「……ほっとしたよ。『皆死んじまったから怪我人は出ない』なんてオチで締められなくて」

「皮肉が出たな。えらいえらい、ようやく水の中でお目々が開けられましたね」崇はもう踵を返して屋上の手すりにカラビナを引っかけていた。「さあ行くぞ。お家に帰るまでが荒事だ」

 

指先で気泡の一つに触れた百合子が内容を読み上げる。「目標ビルの玄関付近で車が横転しました。爆発物が使用された可能性あり――重軽傷者10名」

もう少しで百合子の前であるのを忘れて「あの馬鹿」と口走るところだった。「望月さんね。まったくどっちが〈インストラクター〉なんだか……」

「付与被害は最小限にとどめるよう彼には言い含めてあります。やりすぎることはないでしょう。その点においては信用できる人ですから」

「そのうち、やりすぎなければどんな手を使ってもいい、と思うようになりますよ」

百合子がくすりと笑う。「夏姫さんは、望月さんのことが嫌いですか?」

「生き様が気に入らないだけ。前から思っているけど、百合子さんはあの2人に点が甘いです」

「成長するのは教わる側だけではありません。……今は、彼らの行動がもたらした結果に注目してください」

百合子の操作に合わせ、夏姫の眼前に数字列が滑ってきた。

「〈ハリウッド・クレムリン〉に匿名口座を複数用意しておきました。今回得られた金額はそこで管理します。成果には報酬を払わなければなりませんし」

夏姫は目を瞬いた。行頭に「¥」が表示されているから金額ということはわかるのだが、それにしてもその金額が尋常ではない。彼女も富裕と呼んで差し支えない家に生まれて育ちはしたが、その目から見ても数えるのが恐ろしくなるような数字が並んでいた。しかも――わずかではあるが、一秒ごとにそれが増え続けている。

「……このくらいにしましょうか。警察も愚かではありません。ダミー会社を介しているとは言え、やりすぎると怪しまれます」

「これ……何をどうしたんですか?」

レバレッジです。一度金を海外に送り、違法すれすれの超高速で取引プログラムを走らせてからまた戻しました。金とは情報そのものでもあります。最大限に活用できれば、金そのものに金を増やさせることができるのです」

「情報って、それをどこから」言いかけて、夏姫は自分がすでにその答えを目にしていることに気づいた。「……龍一たちの動きと連動しているんですね」

その通りです、と百合子は満足げに微笑んだ。「どの株が上がりどの株が下がるかさえ予想できれば巨額の利益を得られます。社会不安は人を脅えさせ、緊急通信網を増大させ、警察の配備と検問により都市インフラ整備や商品流通ルート・通学通勤ダイヤの変更・一時停止を余儀なくさせます。また防犯グッズやセキュリティ企業、その雇用主である宝石・貴金属取扱業の株価も大きく変動します」

「理屈では……そうですけど」

それを予想し、寸分の狂いもなく手を打つなど、人にできる所業なのだろうか。

「もちろん理屈自体はシンプルですが、それを可能にするのは『ラプラスの魔』にも等しい無限の計算力と、人の情動までもリソースとして使用する非ノイマン型コンピューターの補助が不可避です。今までは私も含め、成功した者は皆無でした。あなたが目にする、これが完成するまでは」

ノイマン型コンピューター。軍・民間を問わず、各国の先進研究機関が躍起になって開発を進めているはずの、まだこの世に存在しないはずのテクノロジー。なぜそんなものを日本の一富豪に過ぎないはずの百合子が有しているのか……それもまた「高塔家の謎」の一つにカウントしておいた方がよさそう、と夏姫は決意する。

「このシステムに名前はあるんですか?」

「ありません。他のシステムと区別して呼ぶ必要は感じませんでした。敢えて呼べば『ル・システム』でしょうか」

「――ジョン・ローですね」

「そうです。これは『システム』であり、それ以上でもそれ以下でもありません。私が使ってもただ口座の数字を増やすことしかできませんが、あなたならそれ以上のことができるでしょう」

「……私にできるんでしょうか?」

「できます。私にできたのですから」

いつの間にか、百合子の灰色を帯びた瞳が夏姫の顔に据えられていた。「金は血であり、情報であり、おそらくは私や、あなたの体内を流れる血の何割かは、確実にそれで構成されているはずです。ならばそれを予測し、制御することで、この世の理を変化させうるとして、何の不都合があるでしょう?」

光で記された図形と数字を背後に、百合子は厳かに告げる。神託を告げる巫女のように。

「夏姫さんが提唱する『犯罪工学』とも極めて近い発想なのではありませんか?」

「……あなただけでした。私の考えを笑わずに聞いてくれたのは」

あの相良龍一でさえ、初めて聞かされた時は「手の込んだ冗談だ」という顔になったものだった。それを責めたくはない。龍一もまた、自分とは別の妄想に憑かれているのだから。

「いつの時代も最初の一撃は無謀な若者によってもたらされます。私は、あなたや龍一さんのそれに賭ける価値があると判断したまでです。今度は、あなたがテーブルの上で踊る番です。あなたならできます。私もそこから来たのですから。瀬川夏姫」

頷きながらも夏姫は自問する。百合子があの2人に甘い、というのはむしろ自分の願望なのではないか、と。

 

市街の灯が遠くに見える荒涼とした土手で、2人は車ごと装備を燃やした。延焼物が周囲にないことを確かめ、車体にまんべんなく灯油を振りかけたところで、崇が妙にうやうやしい仕草で小さな機器を渡してきた。「キャンドルサービスだ。お前にこのボタンを押す名誉を与えよう」

そんなもの欲しくない、とは思ったが、しぶしぶ受け取りボタンを押した。くぐもった轟音が響き、車も、耐火服も、ECMポッドも、すべてが火に包まれた。暗闇の中で燃える炎は美しかったが、それに何かを感じるにはくたびれすぎていた。早く帰ってシャワーを浴びたかった。

「きつかったな……」

崇も耐火服を着ての乱闘がこたえたらしく、首筋をばりばり搔きながら首を回している。「まあな。しかし何にせよ、これでミッションコンプリートだ」

龍一は顔をしかめた。冷静になると同時に右肩が痛み出したのだ。後で湿布ぐらいはする必要があるだろう。

「報酬は?」

「今、確認した。ばっちりだ……今回はずいぶんと弾んだな」

百合子が手配した匿名口座には、公務員が半年間過労死寸前まで働いて稼げるかどうかという金額が振り込まれていた。人を叩きのめした結果――あるいは返り討ちにあって死んだり半身不随になったりしかねない、その危険に対する報酬として妥当な額なのか、判断はつかなかったが。

それほど浪費する性質ではなかったから、預金は確実に増えていた。あと数年も続ければ、一財産と呼んでもおかしくない額に達するだろう。

しかし、と思う。その先に自分を待つものは何なのだろう。

龍一は今まで崇とともに「泥沼に蹴り落とした」者たちのことを思い出した。再婚した妻の連れ子に度の過ぎた「しつけ」をしていた実業家、子飼いのタレントに売春を強要していた芸能プロデューサー、引き取った孤児に民兵まがいの武装訓練を施して外国人を襲撃していた住職。いずれも誰かの人生を踏みにじることにしか生きがいを見出せない連中だった。だが彼らは自分たちを守る鎧を一度剥ぎ取れば、自分たちが踏みにじってきた人々より遥かに脆弱だった。

崇や百合子は、自分にそんなものになってほしいのだろうか?

たぶん違うだろう、とは思うが、ではどう違うのかを考え始めるとさっぱりわからなかった。

「どうしたんだよ、神妙な顔しやがって」

「いや……」うまく言えず口ごもった。

崇はちらりとこちらを見たが、結局何も言わなかった。案外、そういう機微には聡い男ではある。

「いいことだろうが。金はいくらあっても困らないし、支払いを渋るスポンサーにろくなのはいねえ。……そうだ、俺ちょっと電話するから、今のうちに湿布ぐらい当てとけよ。腫れると面倒だぞ」

「そうだな。ありがとう」

 

「『鬼蛇連合』総長、宝田毅さんですね? 警視庁組織対策課です、任意同行を……おい、待て! 逃がすな、裏へ回れ!」

――何がどうなっているんだ……車内灯を消した運転席で、男はひたすらに身を震わせていた。相撲取りにも引けを取らない巨体が、熱に浮かされたように震えが止まらない。バックミラーに映る己の顔は、惨めなほどに青ざめて、引きつっていた。総長である自分が闇雲に逃げ出さなければならなかったのだ。他の者たちは推して知るべきだろう。

何もかもが順調だったはずだ――数日前までは、と宝田は懸命に考える。そう、数日前から、恐るべき情報力と組織力を持つ何者かが明確な悪意を持って連合に狙いを定めた――そうとしか思えない不幸に立て続けに見舞われ始めるまでは、彼のささやかな王国は盤石だったのだ。

まず未真名市内の各事務所サーバーへの、数回に渡る不正アクセス。続いて原因不明の停電や不審火などの奇妙な前兆を経て、重要な証券や白紙委任状――まさに金を生む源泉と言ってよい書類が何者かの襲撃で奪われ始めたのだった。最初に疑ったのはシノギを荒らされた暴力団の報復だが、そもそも連中は暴対法でがんじがらめにされているし、こういう時を見越して恩を売ってあった中堅幹部は大勢いる。こちらに気取られることもなく先制攻撃、しかもこれほど効果的な襲撃を連続して行える組織など思いつかなかった。

まるでそれと示し合わせたように、今まで口をつぐんでいたはずの「奴隷君」たちが一斉に彼を訴訟し始めた。収賄やら女がらみの醜聞、児童買春やらで弱味を握り、生かすも殺すもこちら次第と思っていた連中が、だ。

何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。子分のことはこの際どうでもいい。自分さえパクられなければ組織はいくらでも立て直せる。とにかく逃げるのだ、北海道でも沖縄でも――それから? それからどうする?

奇妙な音が車内に響き、宝田は天井に頭をぶつけそうになった。恐る恐るバッグを覗く。札束の間に詰め込んだ幾つかの携帯の一つが振動している。使い捨てのプリペイド携帯だ。サツが番号を知っているとも思えない。誰だろう?

表示された電話番号を見て、わずかに安堵した。知己の便利屋だ。藁にもすがる心境とはこのことだった。相手の返答も待たずにまくし立てる。

「ガサ入れだ。しばらく身を隠す、手配を……」

宝田の手の中で、プリペイド携帯が爆発した。

ざあっ、と豪雨のような勢いでルーフとウィンドウに大量の血と肉片が叩きつけられた。宝田の首から上が消失し、たくましい身体がゆっくりとハンドルにもたれかかった。

 

崇がすぐにスマホの通話を切ったのを見て、龍一が怪訝な顔になった。「不通か?」

「いや。ワンコールで切る約束だったんだよ」

なるほど、と龍一が頷く。崇は秘かに百合子へ向けて【終了】とだけ打ち、送信した。

 
金の仔牛

金の仔牛

 
フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち

フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち

 

 

誰にでもできる、簡単な荒事

 エレベーターのドアが開き、相良龍一と望月崇は『ハイパーポリア沙河』38階のペントハウスに通じる通路へ降り立った。招待客を出迎えるつもりだったのだろう、一礼しようとしていた警備員2人が怪訝な顔になった。無理もない――龍一と崇は全身をオレンジ色の防護スーツにすっぽりと包み、ガスマスクで顔まで覆っていたからだ。

「ちょっとちょっと、あなたたち、何?」

「どうも、お疲れ様です。ミマナ・クリーンサービスの町田と申します。こちらは佐久間です」崇は愛想良く頭を下げたが、ガスマスク越しではどこまで伝わったか怪しかった。「こちらの『千田ドリィムイノベーション』様より、害虫駆除のご依頼を受けて伺いました」

 警備員たちは顔を見合わせた。「害虫駆除? そんな予定聞いてないけどなあ……」

「そう言われましてもね……何しろ社長様より直々に頼まれまして」

「ああそう……まあ、それじゃ確認するから、これに名前書いて。はいこれペン」

「ああ、いいですよ、自前で」

 崇は龍一に顎をしゃくり、龍一は頷いてペンを取り出した。キャップを外し――床に落とす。

  バインダーを持つ警備員の手をペン先で突き、手首を返して首を突いた。目の前の警備員が痛みよりも驚きで目を見開き、声を上げようとして――その場に倒れる。手の中でペンを回転させ、目を丸くしているもう一人にアンダースローで投擲した。叫ぼうとしたその顔が瞬時に弛緩し、オーバーな仕草一つなく倒れた。

 ガスマスクの内で息を吐いた。「ダーツの練習、しといてよかった……」

「練習したからってできる芸当かよ。相手は動かない紙の的じゃねえんだぞ。末恐ろしいガキだ」

【うまくいったみたいね】耳に装着したヘッドセットから十代の少女――瀬川夏姫の快活な声が流れ出た。【そのまま進んで。カメラは欺瞞済みだけど、次の定時連絡がなければ怪しまれるわ】

「わかってる。どっちみち、それまでに片付けられなかったら失敗だろうな」

『千田ドリィムイノベーション』とプレートに書かれた文字を確かめた。エンボス体で描かれた社名の真下に「この先企業私有地につき、関係者以外立入禁止」と書いてある。それにしてもこの会社、「ドリーム」ではなく「ドリィム」と表記して恥じない点が実に気色悪いと思う。

 中庭からはマイクを使っているのか、講師の声が微かに漏れている。『皆さん、信じられないのはごもっともです。正直なところ、私も半信半疑でした。この商材を買うまでは……』

 そっとドアを開けた。

  体育館ほどの広さがある屋上は、ビュッフェ形式の宴会場となっていた。BBQグリルまで設置され、肉の塊が串に刺されて油を滴らせている。銀の器に盛られ た南国のフルーツ、色とりどりのピンチョス。ガスマスクを装着しているのに、芳香が鼻孔をくすぐるような気さえして、龍一は腹が鳴り出さないか心配になっ た。

 簡素なステージの上にマイクを持った男性が立ち、その周囲でシャンパン入りのグラスや紙の皿を持った人々が聞き入っている。年齢はまちまち――子供を連れた若い夫婦、友人同士らしい着飾った中年女性やどこかの商業主らしい初老の男性など。

『これまで年収も300万いけばいい方だったのが、今では年収一千万。念願のマンションも車も手に入れ、愛想を尽かして去った妻と子も戻ってきました……』

 それにしても予想以上の人出だ。隠密行動など本当にできるのかという気になってくる。

「……直接乗り込む必要があったのか? ドローンを送り込めばそれで終わる話だろ」

【そうは行かないから、あなたたちの出番なんでしょ。高所に衛星放送とは別のアンテナが見えない?】

 見ると、確かに屋上や植え込みの陰に短めのアンテナが立っている。

「ドローン妨害システムか……」

【あれのおかげで、ドローンで偵察できなかったのよ。週刊誌の記者に空撮されそうになって以来、だいぶ慎重になったみたい。ペントハウス自体も壁や床に妨害素子が編み込まれていて、無線機器やEMPパルスを完全に受け付けないの】

「ビビってても仕方ねえ。行くぞ」

 2人はマスク越しに頷き合った。崇は身をかがめ、建物の影へ音もなく消えた。かさばる防護スーツを着込んでいるとは思えない身のこなしだった。

 さて――ここから先は、何があろうとアドリブで対処しなければならない。

 腹をくくって、歩き始めた。さすがに怪訝な視線が四方から飛んできたが、表立ってとがめる者はいなさそうだった。裕福そうな両親に手を引かれた小さな男の子が目を丸くしているので、手を振って見せた。

(あれだな……)

  かなり広い屋上の、その大半をペントハウスが占めていた。白と銀を基調にした建物はほとんどがガラス張りで、シックな色合いの書棚やソファやグランドピアノに加え、ちらりと見えた居間には深紅のスポーツカーまで置かれていたのには驚いた。こんなところにどうやったら住めるのだろうと龍一はいぶかった。一億 五千万人ぐらい詐欺にひっかけたら可能だろうか。

 ペントハウスの裏手に回り込むと、龍一はワゴンから黒光りする金属筒――単発式のグレネードランチャーを引っ張り出した。ケースから取り出した擲弾を装填し、ペントハウス上部の通風孔に向けて一発、撃った。軽い発射音とともに擲弾は飛び、 壁に当たって跳ね返る――ことなく、接着されたようにへばりついた。

 擲弾が変形し、小さな四輪付きの脚部が展開、小型のドローンとなる。表面に粘性を持つ四輪を転がし、小さなマジックハンドで器用に通風孔のビスを外すと、奥に消えた。

「望月さん、仔豚が入った。頼むぜ」

 

 電磁石を応用した解読機でロックを解除し、崇はペントハウスのさらに最上階に位置する社長室に足音もなく滑り込んだ。

「へん、これはなかなか……」

  社長にふさわしい重厚なインテリア。染み一つ、髪の毛一本落ちていないベッドルーム。全面ガラス張りのフロアから下界を見下ろすと、地上を行き交う人や車がミニチュアにしか見えない。ここに女を連れ込んだりワイングラスを手に「独裁者ごっこ」ができるわけか、そりゃ病みつきになるわな、と考える。

 デスク上のノートPCを起動させた。ログインの画面が出るが、すぐに警告音が鳴る。

「生意気に網膜識別かよ」舌打ちし、ハッキングツールを取り出そうとした瞬間、崇は耳を澄ませた。足音――誰か来る。

 崇はソファの後ろに身を隠した。ドアが開く。部屋の主だろう、怪訝そうな顔でノートPCを覗き込んだ男の首筋に、金属筒を突きつける。

「動くな」

「……通報はしないよ、しないからさ、私の話を聞いてくれよ」

 男は丸パンのような顔に満面の笑みを浮かべてみせた。恰幅のいい男だった。こいつが社長か。

「君の、いや君たちの噂は聞いているよ。ずいぶん荒っぽい方法で稼いでいるみたいじゃない。一度、聞いてみたかったんだよ。純粋な好奇心からさ」

「あんた、こそ泥に世間話をする趣味でもあるのか」

「ご謙遜を。ただのこそ泥なら最初からここに忍び込もうなんて考えないさ。ただでさえ敵の多い商売だからね、セキュリティに金をケチるとろくなことがない……」

 振り向こうとした男の首により強く金属筒を押し付けた。男は顔をしかめたが、声は上げなかった。

「何でそんなに私らを目の敵にするのさ。まさか社会正義のためでもないでしょ?」

「聞いてどうする」

「うちを潰したって誰の得にもならないからさ。うちで扱ってるのは毒でも麻薬でもない。習慣性まったくなしの人畜無害な健康食品だもの。まあ……ちょっと効用は誇張したかな。金に困った博士や大学教授に頼んで、結構ハクつけてもらったし」

 何がおかしいのか、男はくすくす笑う。

「そ りゃ体質に合わない人がごくたまーにいて、余計に持病がひどくなったって訴訟騒ぎになるけどさ、そんなの切りがないじゃない? 百万、二百万単位で売ってたらそれの一人一人に合わせた商品展開なんてほぼ不可能だしさ。かと言って薬効を弱くしたら効かないって文句言われるし。これでもパブリックイメージには 気を遣ってんだよ? 私らは儲かる、買った方もハッピーになる。それで何が悪いのさ?」

 崇はやはり黙っていた。単に面倒臭かったからだが、男は首をかしげた。

「おっ と、君たちの悪口を言ってるわけじゃないんだ。君たちには確かに才能がある。確かに――実社会では活かしようのない、潰しの効かない才能だけどさ。それが ただ破壊のみに向けられているなんて、悲しくない? いっそうちで働きなよ。雇い主からいくら貰っているかは知らないけどさ、その十倍は約束……」

 崇は黙って握りしめた金属筒のスイッチを入れた。紫色の火花がばちばちと音立てて飛び散った。男は喉からうがいをするような音を立て、泡を吹いて倒れた。

 崇はマスクの内側で鼻を鳴らした。「請負仕事ならなおさら、ほいほい雇い主を替えられるもんかよ。それとも、年金と税金の還付でももらえるのか」

 痙攣している男の瞼を無理やりこじ開ける。「ちょうどいい。『ルドヴィコ療法』の出番だな」

 小型カメラに似た機器を目に当て、男の網膜をスキャン。ノートPCに向けると認証が完了し、正規の画面に切り替わる。

「侵入成功。仔豚、抽出作業は任せるぞ。俺にはもう一つ仕事があるからな」

 崇はメモリスティックを取り出し、にんまりと笑いながらノートPCに挿入した。「お待たせしました、本日のスペシャルブレンドでございまーす」

 

「まーかせて」

  指先でスペックスの位置を調整しながら夏姫は答えた。ついでに髪型も確かめる。ドローンを利用した精密作業には確かに視界の広いHUDの方が向いているのはわかっているが、あれはせっかくセットした髪が崩れるからあまり好きではないのだ。龍一は「邪魔になるんならポニーテールでいいじゃないか」と言うが、 お生憎様。今日はお団子にしたい気分なのよ。

 彼女の視界には今、視界を共有しているドローンからの映像がリアルタイムで投影されている。目の高さは低く、周りの物体すべてが実際より大きく見える。小人の幽霊にでもなった気分、というところか。

 目的の部屋に着いた。暗く、生身の人間ではほとんど身動きが取れないほど大型のサーバーが光を点滅させるサーバールーム。通風孔からドローンを落下させる。

【ところでそのトンカツに名前はあるのか?】

 双眼のような複数のカメラを持ち、前方に開口部を大きく開け、短い脚の先の小さなタイヤで移動するドローンは確かに前世紀の「仔豚の蚊取り線香入れ」に見えないこともない。が、

【トンカツって呼ぶのやめてよね。せめてピーちゃんて呼んでよ】

【うるせぇ。豚足ぶつけんぞ】

 年頃の女の子に何て言い草よ、と夏姫は憤然とする。龍一といい望月さんといい、どうも雅さに欠けるわね。

 プロープを伸ばし、サーバーへの直接アクセスを開始する。

「侵入に成功。紳士淑女の皆様、入場のお時間です」

 龍一が腐るのもわからなくはないわね、と夏姫は思う。だってこれじゃ人はただのドローン運搬人だもの。やっぱり犯罪って、計画している間が一番楽しいな。

 

【ほぉら、出てきた出てきた……うわっ、この株主の名前、見覚えがあるわ。『失業率の高さは仕事を選り好みする若者の自己責任』とか公言してる社会学者が、裏じゃ怪しげな健康グッズでぼろ儲けしてるんだ。ドン引きだわ……】

「そんなことより、ダウンロードはもっと速くなんねえのか?」

【私のせいじゃないわよ。望月さんのお祈りが足りないんでしょ】

 小娘が、と崇は黙って舌を出す。タメ口どころか女教師みたいな口を聞きやがって。下の毛をむしってやったら少しは大人しくなるかな。

 不意に、ズボンの裾を倒れていた男がわななく手で掴んだ。「ふざけんなよ……何が憎くて、俺たちの商売を邪魔しやがる……」

「寝てろ!」

 時価何百万は下らなそうな宋代の壺を抱え上げ、頭に叩きつける。壺は木っ端微塵に砕け散り、今度こそ物も言わず男は失神した。

「てめえこそ、人の仕事を邪魔すんなよ。……さて、そろそろ逃げるか……」

 だが次の瞬間――大音響とともに、耳障りなサイレンが鳴り始めた。倒れ伏した男の手に小さな装置が握られているのに気づく。……パニックボタン!

「すまん、しくじった……!」

 

 突然鳴り出したベルに、当たり前だが、談笑していた客たちがざわめき始めた。

【プランBはまあ仕方ないとして、実際どうするの? ダウンロード終了まで5分はかかるわよ】

【どうもこうもねえ、進めるしかないだろ。龍一、時間を稼げ】

「時間稼ぎって……何をすればいいんだ?」

【何でもいいんだよ、裸踊りでも。とにかくあと5分、いや3分でいい、騒ぎを起こせ】

 気楽に言いやがって、とは思ったが、手をこまねいていても状況が悪化するだけであるのも確かだった。

 ええくそ、と思い腹をくくった。一つだけ深呼吸し、大股でステージに向かって歩き出した。

 周囲のざわめきが大きくなった。異様な姿の龍一に、今までマイクで体験談を話していた温厚そうな中年男性が目を瞬いている。傍らに立っていた体格の良い男が、龍一を見て不機嫌そうに顔を歪めた。

「何だね、君は? 今は大事な講義中なんだ。警備はどうした?」

 男は赤ら顔をさらに赤くして大股で近寄ってきた。スキンヘッドにラグビー選手のような体格は、半端な与太者など物も言わず逃げ出しそうな迫力だ。

 龍一は自分のことを口下手だと思っている。少なくとも大勢の前で口ごもらず滑らかに話す自信がない。加えて、自分の声を周囲の人間に聞かれたくはなかった。だから彼は黙って男の喉首を掴み、真上に持ち上げた。

  男の喉から「ぐっ」という奇妙な音が漏れた。赤い顔がどす黒くなり、綺麗にそり上げられた額にびっしりと汗の玉が浮き始める。張り裂けんばかりに目が見開かれた。聴衆の不安げなざわめきが、はっきりとした驚愕のどよめきに変わる。決して小柄ではない男の身体が、じりじりと宙に浮き上がり始めたのだ。

「き、貴様、離せ……!」

  言われた通り、龍一は手を放した。虚を突かれ、バランスを崩してよろめいた男の顎を、横からフック気味に拳で打ち抜いた。拳銃で眉間を撃ち抜かれたように、たくましい身体が膝からぐにゃりと曲がり、崩れ落ちた。打たれ強い人間はこの世に腐るほどいるが、脳を「揺らされて」平気でいられるのは、漫画かアクション映画に出てくるヒーローだけの特権だ。

 マスクの中で軽く息を吐き――そこで初めて、周囲から注がれる視線に気づいた。着飾った男女の群れは口を手で覆うか、隣の者と顔を見合わせるか、「落ちはどうしたの?」と言わんばかりの顔をするか、のどれかだった。

 少しやりすぎたかな、とは思ったが、これから始める作業を変更する必要は感じなかった。それにこれで何か言う必要もなくなったことに気づいた。

 ワゴンを傾けると、中に詰まっていた発煙筒が数個、ごろごろと転がり出た。筒が一斉に白煙を噴き出し、屋上を瞬く間に覆い尽した。

 今度こそ手の付けられない混乱が発生した。スプリンクラーが一斉に放水を始め、逃げ惑う男女の頭上にもうもうと霧雨を降らせた。

 騒ぎを聞きつけて隣室から社員たちが駆けつけたが、我先にと逃げ出す男女の渦に巻き込まれてすぐ見えなくなった。訳も分からず喚きながら飛びかかってきた男の顔面に軽く裏拳を見舞い、鼻血が噴き出したところを突き飛ばした。

 やれやれこれ以上派手な陽動もないなと思った。さて、後は脱出するだけだが――

 エレベーターが開き、暴徒鎮圧装備に身を固めた警備員たちをダース単位で吐き出した。物陰に転がり込みながら龍一は思う――ゴジラの気持ちが何となくわかってきたな。

 

【95%……99%……終了。望月さん、ゲームセットよ!】

「ようし、こっちも終わりだ」

  崇はメモリスティックを引き抜く。ノートPCの画面では、崇の注入した「スペシャルブレンド」――閉鎖的な社内ネットワークではより致命的な毒となるウィルスが猛威を振るい、あらゆるデータをコピーすると同時に各報道機関にメール添付の形で無差別に送り付けていた。思わずほくそ笑む。これで奴らの「ネットワーク」も「ビジネス」も、両方とも廃業だな。

 中庭の騒ぎは、ここからでも聞き取れるほど大きくなっていた。銃声めいた破裂音まで連続して聞こえてくる。

「……まあ、確かに騒ぎを起こせとは言ったが、やりすぎじゃないかな……」

 

「動くな! 大人しくしろ!」

 プラスチックの盾に身を隠し、電磁警棒を構えた警備員が殴りかかってくる。民間警備会社としては大した戦意の高さだ。それを素直に称賛できない自分の立場が残念なくらいだった。

(おっと……)

  一撃をかわしはしたが、かさばる防護スーツで少々もたついた。着ぐるみを着ているようなものだ。あまりいつものように殴る蹴るはできそうにない。それなりの訓練とそれなりの装備を持った屈強な男たちは油断できる存在ではないし、防護スーツの絶縁機能を試す気にもなれなかった。

(仕方ねえ、ちょっとズルするか)

 腰のポーチから黒い球体を取り出し、投げる。半壊した椅子に当たって止まった球体は二つに割れ、次の瞬間、けたたましく機関銃の連射音を大音量で響かせ始めた。この緊迫した状況で効果は抜群だった。殺到していた警備員たちが血相変えて床に伏せ、あるいは物陰に隠れる。

「せーの」

 龍一は横倒しのテーブルを抱え上げ、構え、走り出した。30センチの歩幅さえあれば、彼の脚力は全力疾走に移れる。

 態勢を立て直そうとしていた警備員が5、6人、悲鳴すら上げられず吹っ飛ぶ。素人相手ならともかく、プロには容赦しないのが龍一の流儀だった。それでメシ食ってんだろ、と思うからだ。

(早くしてくんないかな、望月さん……)

 

【そろそろ龍一も限界よ。数が多すぎるわ】

「わかってるって。にしても、あの人数じゃ助けに行ったって共倒れだ……」

 見回した崇の目に鮮やかな色が飛び込む――居間の調度の中でも、一際目立つ深紅の車体。

「夏姫。車のキーをハッキングはできるか?」

【できるけど……でも、どうして?】

「まあ……ちょっとしたスタントをだな」

 夏姫はそれだけで察したらしい。【……下手すると、天国へのひとっ飛びになるわよ】

「へっ、人生なんて使い捨てだろ。桐箱に入れて大事に大事に扱ったってな、死ぬ時は死ぬんだよ」

 

(くそっ、まだかよ……)

  接近する警備員たちに横転したソファの影から麻酔ダーツを投げながら、龍一は辟易し始めていた。さすがに彼らも用心深く、プラスチック製の盾を構えながら距離を詰めてきている。重機関銃でもあれば突破はできるかも知れないが、高塔百合子は強力な火器の使用には極めて慎重な態度を取っていた。

 さすがにこの人数をさばき切れるかどうか、龍一の自信が怪しくなってきた時、

「よう、待たせたな!」

 流行の電気自動車とは比べ物にならない獰猛なエンジン音とともに、壁とガラス戸を破って深紅のポルシェが現れた。

 蜘蛛の糸にすがるカンダタの気分だった。龍一は足にすがりつく警備員に蹴りを見舞い、必死でポルシェの運転席へ転がり込んだ。

「ずいぶんとごついのを見つけたな……」

「本当は戦車が欲しかったんだが、まあこいつで我慢するさ……金を腐るほど持っていても女と車とマンションぐらいしか使い道が思いつかない、日本の金持ちに感謝だ!」

【燃料あんまりないわね……少しでも助走距離を稼ぐから、目一杯加速するわよ!】

 ここへ運び込まれた時の残りだろう。カーチェイスをするわけではない、好都合だ――そこまで考えて、龍一はもっと大事なことに気づいた。「夏姫……そう言えば君、運転免許は?」

【龍一はあるの?】

「いや」

 何とも不吉なことに、うふっ、と明るい笑い声が帰ってきた。【安心して。私もよ】

 人生最大のミスを冒したような気がしたが、降りるには遅すぎた。崇は目をつぶって深々とシートに後頭部を埋めた。「やっぱ、一度ケツ叩いてやんねえと駄目かな」

【2人ともシートベルト締めて! 舌噛まないでね!】

 返事を待たず、ポルシェの全天候タイヤが白煙を上げるほどの勢いで空転し、次の瞬間、蹴飛ばされたように突進した。まるでロケット打ち上げのように凄まじいGが全身にかかり、龍一は思わず歯を食い縛った。さすがに崇も軽口を引っ込めている。

 車が走るにはあまりにも狭い中庭へポルシェが躍り出る。テーブルを粉砕しBBQグリルを四散させ、逃げまどう警備員を追い散らしながら、屋上の縁に向かって走った。

 落下防止用のフェンスを突き破る衝撃。十数メートルの高空を、撃ち出された砲弾のように深紅の車体が駆けた。おそらくこちらの屋上から立ち上る白煙に気づいたのだろう、向かいビルの窓際に鈴生りになっていた総合商社の社員たちが、わっと左右に逃げる。

 轟音とともに龍一の意識は数秒間途切れた――彼はうっすらと「当分ジェットコースターには乗りたくない」と思っていた。

 

「……生きてるか?」

「幸か不幸か、あの世じゃなさそうだな」

 シートベルトを外し膨らんだエアバッグから逃れ、歪んだドアを蹴飛ばして降り立つのは一苦労だった。廊下の端まで避難したビルの社員たちが、光る円盤から降りてきた緑色の宇宙人を見るような目で2人を見ている。

 龍一はさっきまで自分がいたマンションを振り返った。マンションから鼻と口をハンカチで押さえた人々が逃げ出し、通行人にぶつかり、通りは大混乱になっていた。駆けつけたパトカーから次々に警官たちが降り立ち、警備員たちと入れろ入れないの押し問答を始めている。

  まただ、と龍一は溜息を吐きたくなった。龍一は好きな小説の一節を思い出した。誰も殺さず傷つけもせず、居合わせた客たちが巧みな弁舌に聞き入っている隙に有り金を盗んでしまう銀行強盗たちの出てくる話だ――ショウは終わりです。テントを畳み、ピエロは衣装を脱ぎ、象は檻に入れ、サーカス団は別の町へ移動 します。

 なぜ、自分たちはそうできないのだろう?

「行くぞ!」

 走り出す瞬間、龍一はもう一度眼下を見下ろした。押し問答の結果だろう、よろけて姿勢を崩した警官の一人が何事か叫び、勢いづいた警官隊が静止を振り切って突入する光景が目に焼きついた。

ニューカルマ

ニューカルマ

 

 

「友人」との対話

(過去にmixiで公開していた短編であり、『未真名市素描』のプロトタイプに当たります。多少の誤字修正以外は当時のままにしてあります。ブログ公開記念としてご笑覧ください)

 わたしがトラルファマドール星人から学んだもっとも重要なことは、人が死ぬとき、その人は死んだように見えるにすぎない、ということである。過去では、その人はまだ生きているのだから、葬儀の場で泣くのは愚かしいことだ。あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。たとえばトラルファマドール星人は、ちょうどわれわれがロッキー山脈をながめると同じように、あらゆる異なる瞬間を一望のうちにおさめることができる。彼らにとっては、あらゆる瞬間が不滅であり、彼らはそのひとつひとつを興味のおもむくままにとりだし、ながめることができるのである。一瞬一瞬は数珠のように画一的につながったもので、いったん過ぎ去った時間は二度ともどってこないという、われわれ地球人の現実認識は錯覚にすぎない。

 トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、"そういうものだ"。
 ―――カート・ヴォネガット・ジュニアスローターハウス5

 未真名、と書いてミマナと呼ぶ。相良龍一が生まれて育ち、そして今住んでいる市の名だ。元は『書紀』に登場した古の神々が住まう土地の名らしい。 その由来を知った時、龍一はなんとなく不愉快になったことを覚えている。日本神話が不愉快ということではない。ファンタジーとして楽しむべき日本神話の地名を、現実の市につける行為自体が、どうにも下品に思えたのだ。

 もっともそれほど目くじらを立てる必要はないのかも知れない。命名した者の意図がどこにあるのかはともかく、現在の未真名市はあらゆる意味で理想とはほど遠い場所と成り果てたからだ。

 うまい話があるんだ、ある日ふらりと龍一の住居を訪ねてきた「友人」はそう言った。福建マフィアの地下銀行を襲おうぜ。上手くいったらお前にも分け前をやるよ。
 彼に何を期待していたわけでもないが、こんな「うまい話」に乗ってくる奴がいたらお目にかかりたいものだ、と龍一は思った。学生時代にほんの半年同じ教室で 学んだというだけで、数年の間全く音信不通、しかも外回りでへとへとになって帰ってきて少し仮眠でも取ろうと決めたところへ何の前触れもなくふらりと入ってきた自称「友人」に聞かされる話としてこれ以上胡散臭いものはない。
 やばい話だってのはわかるよ、うん、と「友人」は龍一の顔色を察する様子 もなく話し始めた。そうだよな、少しでもおつむの働く奴ならびびって当然だよな。でも俺だって考えたんだ――当てれば儲けはでかいし、何よりブツがブツだ。奴ら泣き寝入りするしかないんだぜ、まさか警察に駆け込むわけにもいかないんだからな。
 間に合ってるよ、と一言言えばそれで済んでいたのかも知れない。腹を立てた「友人」が捨て台詞を残して龍一の住居を後にしたところで、別に痛くも痒くもない。
 だが龍一は口ごもってしまった。あの頃は龍一自身も、そして彼の周囲も尋常な状態ではなかったおかげで、級友たちへの連絡もろくにせずに高校を去ることになってしまった。どうしようもなかったとは思うが、少々気がとがめたのも事実だった。
 もしかして、俺が連絡をよこさなかったの、怒ってるのかよ。
 龍一の沈黙を誤解した「友人」の声がやや上ずった。俺だって心配してたんだよ、お前が高校を中退してからもずっと。でも俺の方でもいろいろあったし、ここにお前が住んでるってわかるまでにもいろいろあってさ…。
 別にお前に心配してもらうほどのことじゃない。龍一は静かに言ったが、「友人」はその口調に龍一が激怒していると完全に誤解したらしい。
 悪かった。俺が悪かった。「友人」の声はほとんど金切り声だった。お前がそんなに苦しんでいるなんて思わなかったんだ。許してくれ。
 悪い奴じゃなかった。龍一はややうんざりしながら思い起こした。ただ少しばかり鈍感で、少しばかり要領が悪い奴だったというだけで。
 しかし、俺が過去の記憶に苦しんでいるだって?

 確かに愉快な思い出とは言えない。何かの拍子に、ふと、胸の奥で何かが蠢く気配はある――だがそれは今のところ、龍一が毎日起きて歩いて食べて飲んで排泄して寝る、何の邪魔にもなっていないし、第一、目の前で地べたに頭をこすりつけんばかりにしている自称「友人」にそれをどうにかできるとも思えない。どう にかしてもらおうとも思わない。
 悪かった。でも、許してくれるよな。
 そう言って顔を上げた「友人」の口元に浮かんだ媚びるような笑みは、とうの昔に盛りを過ぎた娼婦の笑みに似ていた。だから、ほら、うまい話を持ってきてやったじゃないか。
 本来ならこんな話を聞けるような心境ではないのだ。つい先ほど、抗争寸前にまで高ぶっていた漢人とウィグル人の仲を取り持ってやったばかりで(本当に命が けだった。最悪の場合、双方から袋叩きにされかねなかったのだ)できることなら飯も食わずにそのままぶっ倒れて正体もなく眠りたいくらいだった。
 しかしもう遅い。いくら胡散臭くともここまで聞いたからには話を聞かないかぎり帰ってくれないだろうし、追い返すタイミングはとうに逃している。自分の甘さを呪ったところで後の祭りだった。
 そもそも地下銀行がどうのなんて話、どこで聞いたんだ。
 龍一が食いついた、と思った「友人」の顔は輝かんばかりだった。ダチの姉貴が中国人の経営する店でホステスやっててな、と我が事のように得意げに言う。そこにマフィアどもの「会計係」がやってきて、酒飲むついでに自慢げに語ったんだと。
 その姉ちゃんが逆にこっちの情報を漏らす、ってこともあるんじゃないのか。
 疑うのかよ、と「友人」はさも心外そうに言った。そいつの親父もお袋も純血の日本人だぜ? 中国人どもと俺たちとどちらに味方するのが得か、なんてわかりきってるだろうが。
 お前は単なる人種差別主義者だよ、と指摘してやるのは簡単だが、そう言ったところで相手が怒り狂うだけで何の解決にもならないと思ったので他の実利的な質問をすることにした。
 得物は。

 拳銃が3挺あるぜ、安物のトカレフだけどな。サブマシンガンも2挺。あと、ネットから製造方法をダウンロードして作ったパイプ爆弾がある。車一台分ぐらいは木っ端微塵にできるぜ。大したもんだろ。
 確かに大したものだ、と思う。襲う先がマフィアの地下銀行でなければ。
 人数は。
 俺を入れて5人。分け前を考えれば充分だろ。あ、もちろんお前が加わる分にはどうってことないぜ。
 軍隊経験者はいるのか。
 痛いところを突かれたらしく、「友人」は口ごもった。いないよ。でも、射撃訓練は一通りこなしたんだぜ、自衛官上がりのインストラクターを呼んでさ。思いっきりふんだくられたけどな。
 つまりは天下御免の烏合の衆というわけだ、そう思うと早くも続きを聞く気が失せてきた。 そんな奴らを集めて何ができるというのか。路地裏に気の弱そうな奴を連れ込んで金を巻き上げるだの、路地裏に若い女性を連れ込んで手籠めにするだの、その 手の下劣な犯罪の方がまだお似合いな連中に思えた。間違っても「マフィア」の「地下銀行」を襲うなどという芸当ができるとは思えない。
 逃走ルートは決めてあるんだろうな。
 車はもう用意してある。安全運転で目的地に横づけ、銃を構えて突入。「金はどこだ」。後は札束を詰めるだけ詰め込んで、一滴も血を流すことなく逃走。あとは近くの朝鮮系マフィアの縄張りに紛れ込んじまえばいい。そうなれば奴らがどれだけ歯ぎしりしたって無駄さ。
 じゃあ目的地へ向かう途中に誰かをひき逃げ、金庫はからっぽ、死体の山を築き上げて逃走、逃げる途中で渋滞に巻き込まれる可能性もあるんだな。
 俺のダチにケチをつけるんじゃねぇよ、と「友人」の声が一オクターブ跳ね上がった。みんな憂国の士ぞろいなんだぜ、そんなドジ踏むもんかよ。
 憂国の士?
「友人」はしまったと思ったらしいが、その言葉を引っ込める気はなさそうだった。ガイジンどもに牛耳られるこの国の将来を真に憂える人たちがいるのさ。この話にもいろいろと便宜を図ってもらったし、多少のことならもみ消してくれるって約束も取り付けた。もちろん、払うもん払うのが前提でな。
 ――もしかして、この話は「上納金」のためなのか?
 わかってるじゃないか。
 それで、なあ、お前の取り分は、その「上納金」を差っ引くといくらになるんだ。
 意外な質問だったらしい。「友人」はいぶかしげな顔をした。
 お前の取り分はちゃんと用意するって言っただろ。友達なんだからな。
 俺の、じゃない。お前の、だ。
 必要ねえよ。ただでだってやりたいくらいさ。俺は祖国解放のために戦う兵士のひとりになれれば、それで十分なのさ。
 こいつは学校へ行かなかった方がまだまともな人生を送れたんじゃないか、と龍一はしみじみ思った――もっともこの国の教育機関が友愛と協調の大切さを謳いながら、実際には弱者への軽侮と共同体への盲信を教える場所でしかない、と知っている身としては今さら驚くことでもなかったが。
 だったらこの話はおしまいだ。俺は乗れない。
 何でだよ。「友人」の声は今度こそ本当の金切り声になった。これはガイジンどもから祖国を解放するための前哨戦なんだぜ。中国人から、朝鮮人から、ロシア人 から、黒人とユダヤ人とアラブ人から、イェメン人とウィグル人とチェチェン人から(このあたりで彼が知っている民族名を並べているだけとわかったが、龍一は黙っていた)。統一朝鮮だって、いつ海を越えて攻めてくるかわからないんだ(中国との小競り合いと旧北朝鮮ゲリラの鎮圧で手一杯のあの国にそんな余裕あるかよ、と突っ込みたくなったが、やはり龍一は黙っていた)。お前にだって金は入るんだ。何が不満なんだ?
 お前は誰かのためには金を稼げて、自分のためには稼げないのか。
「友人」がぐっと詰まった隙に、龍一はとどめを刺した。
 聞かなかったことにしてやるから、今日はこのまま帰れ。そのダチ連中と一緒に、手持ちの金全部使って、うまいものでもたらふく食って、余った金でおねえちゃんのおっぱいでも揉め。それからバカ話しながらへべれけになるまで飲んで、一晩寝て忘れろ。
 それくらいで俺たちが忘れると思うのかよ。
 お前らの祖国解放の戦いとやらが、おねえちゃんのおっぱい以上の価値があるとは思えないね。お前の言う「この国の将来を真に憂える人たち」だって、おっぱい揉んでる方がきっと楽しいさ。
 ―― もし龍一が明日も知れないほど食い詰めていたら、「友人」の話に一も二もなく飛びついたかも知れない。よくぞ俺を選んでくれた、と感謝したかも知れない。だが幸運にも、本当に幸運にも、今の龍一はそこまで切羽詰ってはいなかった。悠々自適とは言いがたい、薄汚れた、自慢のできない仕事だが、食うに困らないぐらいの収入はある。この「友人」の数倍は頼りになりそうな知人もいる。たまにではあるが、仕事の合間を縫って父親も訪ねてくる。さほど親しくもなかった 「友人」の、とても成功するとは思えない、成功したところで何か意味があるとも思えない話に乗って、その全てを台無しにするのか。
 考えるまでもない。
 龍一は急に徒労感を覚えた。やはり間に合ってるよ、と一言言えばよかったと思った。そうすればこの「友人」に、好きではなかったが嫌いでもなかった男に、ここまで冷酷な評価を下す必要もなかったのだ。
 これ以上説明する必要はないよ。俺は乗らない。
 見損なったぜ、そう呟く「友人」の声はひずんでいた。もう少しは利口な奴だと思っていたのにな。
 お前やお前のお友達よりは、福建マフィアの方がお利口だよ。大体、敵を舐めて勝てると思っている奴と手を組みたいとは思わないね。
「友人」は本当に、本当に心の底から悲しそうな顔をした――もしかするとその瞬間まで、龍一がこの話を断るとは欠片も思っていなかったのかも知れない。そう思うと胸の奥がうずかなくもなかったが、もちろん龍一に自分の言葉を引っ込める気はなかった。
 売国奴。中国人の肩なんか持ちやがって。お前には愛国心がないのかよ。
 生憎、燃えないゴミの日に出しちまってね。
「友人」は黙って肩を震わせていたが、やがて踵を返して言った。お前なんか友達じゃない。
 龍一は悲しくなった。「友人」の言葉にではない。そう言えば龍一が傷つくと思い込んでいる彼の浅ましさにだ。
 後には龍一ひとりが残された。あまり人に見られたくない顔をしていたに違いない。
 認めるよ――龍一は心の中で呟いた。再会したばかりの、嫌いではないが好きでもなかった相手のために何の見返りもなく命を投げ打つのが「友達」なら、確かに俺はそうじゃない。
 少し寝た後で夕食の支度をするか、と思った。結局「友人」の訪問は、彼の生活に波風一つ立てなかった。


 その後のことは、全て付け足しに過ぎない。
 結論から言えば、「友人」が熱い魂のいまいち信用のおけない仲間とともに意気揚々と車に乗り込んだ時、襲撃される側の福建マフィアは彼らの情報をほぼ完全に把握していた。情報を漏らしたのは、龍一の読み通り地下銀行の情報をもたらした例の日本人ホステスだった。儲けは弟と折半だと皮算用していた彼女は、やがて弟が自分を除け者にして襲撃計画を進めていることに不満を抱き、弟がとても信用に値しない悪たれ小僧どもを計画に引き入れようとしていることに腹を立 て、そして事が露見した時の自分の運命に思い至って震え上がった。怒り狂った福建マフィアに地の果てまで追いかけられて八つ裂きにされることを考えれば、 成功して六等分だか七等分だかされた端金が手に入ったところで、とても割に合わない。彼女が弟を売るまでに時間はそうかからなかった。
 つまり、この計画に自分たちの全てを賭けた時点で、彼らの命運はすでに尽きていたことになる。
 地下銀行、という呼び名から想像していたイメージとは比較にならない小綺麗なビルにとまどいながら(地下と言っても地下にあるわけではない――つまり彼らはろくに下見もしていなかったことになる)「友人」とその仲間は天井に向けて銃を乱射しながら突入した。
 歯並びの綺麗な受付の女性と、たまたまその場に居合わせた不幸なビジネスマンと、パートの清掃員を死ぬほど脅えさせはしたものの、彼らの戦果はそれだけだった。
 定年間近の支店長をさんざん脅しつけ、文字通り尻を蹴上げて大金庫のドアを開けさせたが、もちろん大金庫の中は空だった。
 金はどこだ、とわめいている間に事態はさらに悪化した。ビル内にサイレンが大音量で鳴り響き、大金庫に通ずる通路全てが封鎖された。支店長を人質に取ればあるいは破滅の到来を少しは遅らせられたかも知れないが、彼はセキュリティを作動させると同時に姿を消していた。伊達に地下銀行の支店長をやってはいなかったらしい。
 慌てふためく彼らの前に現れたのは、日本の警察ではなく、ビルと契約しているロシア系警備会社から派遣された重武装の保安要員たちだった。いずれも幾度目か誰もが忘れてしまったロシア・チェチェン間の紛争を経験し、より高給を求めて軍を退役した特殊部隊出身者たちで構成され、ユーロ製の軍事ハードウェアに身を包み、カービン銃と散弾銃で武装し、しかもExtra Territoriality――日本政府からの「企業私有地における免責特権」というお墨付きまで持っていた。要するに「お宅の敷地で悪さをする奴らは我が国の国民どころか人間ですらありません。煮るなと焼くなと好きにしてください」というものだ。そして彼らには雇用主のビルに土足で踏み込んできた不埒なガキどもに遠慮する必要など一切、なかった。
 4度連続して強烈な音と閃光を放つ大型閃光手榴弾の炸裂で、全員が視覚と聴覚を奪われた。反撃どころか、身をかばう余裕さえ与えられなかった。続く斉射で彼らはずたずたに引き裂かれ、薙ぎ倒された。かろうじて息のあった者にも、ロシア人たちは拳銃で丹念にとどめを刺して回った。
 日本人の清掃スタッフにより、死体は布袋に詰められ、床は血の跡すら残さず清められ、いずこへともなく運び去られた。事件に巻き込まれた人々は近くの病院へ移送され、ショックが大きかった人々のカウンセラー料は市が負担した。


 事件の顛末を、龍一はタイ人の情報屋から聞いた。同じ日本人の君に言うのもなんだけどね、お粗末な事件だったよ。
 俺に遠慮する必要はないぜ、と龍一は答えた。確かに、お粗末ではあったよ。
 通話を切ってから、龍一は傍らの文庫を手に取った。ちょうど夕食を終えて、カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』を読んでいたところだった。
 2、3ページほどめくったが、不意に嫌になって、そのまま放り出した。

   わたしがトラルファマドール星人から学んだもっとも重要なことは、人が死ぬとき、その人は死んだように見えるにすぎない、ということである。過去では、 その人はまだ生きているのだから、葬儀の場で泣くのは愚かしいことだ。あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。たとえばトラルファマドール星人は、ちょうどわれわれがロッキー山脈をながめると同じように、あらゆる異なる瞬間を一望のうちにおさめる ことができる。彼らにとっては、あらゆる瞬間が不滅であり、彼らはそのひとつひとつを興味のおもむくままにとりだし、ながめることができるのである。一瞬 一瞬は数珠のように画一的につながったもので、いったん過ぎ去った時間は二度ともどってこないという、われわれ地球人の現実認識は錯覚にすぎない。
  トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な 状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、"そういうものだ"。

 

 

『未真名市素描』予告

どんな小説を書いているか、の一例として予告です。

 

【予告】

―—沖縄で核テロが勃発し、海の向こうで半島が統一された、五分後の未来。

 

日本海沿いの政令指定都市・未真名市を舞台に、物語の幕は上がる。

 

「……17年前、沖縄、偽装核、『ネクタール』、HW。今言った言葉の中で一つでも思いつくものがあったら言え。安心しろ、全部話すまでは絶対に殺さない」

恩人の死の真相を探るため、犯罪者コミュニティに身を投じる少年、相良龍一。

 

「犯罪の完全な予測なんて不可能だと思うの?逆に聞きたい。どうしてそう思うの?」

『この世のすべての犯罪を予測あるいは制御する』という奇妙な妄想に憑かれた少女、瀬川夏姫。

 

「お前の本当の罪は人を殺したことじゃない――けだものの子の分際で、人の世に間違って生まれたけだものの子の分際で、真っ当な人間のふりをしようとしたことだ」

〈犯罪のインストラクター〉を名乗る男、望月崇。

 

「私の血は金であり、図形であり、数式であり、あるいはその全てです。であれば、命を金で買えて、あるいは金を命で買えて、何の不都合があるのでしょう?」

祖父の忌まわしき遺産と刺し違えるためだけに生きる若き財閥当主、高塔百合子。

 

彼ら彼女らが集う時、軍と企業と犯罪結社の一大ワンダーランドを苗床に、巨大な陰謀が動き出す。

 

『未真名市素描』不定期連載中

乞うご期待

 

他にも幾つか構想はありますが、随時公開していきます。お楽しみに。

はてなブログ始めました

初対面の方は初めまして。別の場所で(電子物理問わず)お目にかかった方はごぶさたしております。アイダカズキです。

いろいろ考えた末、しばらくはてなでブログを作ることにしました。

近況報告などはTwitterの方でやっているので、ここではオリジナルの小説(初出のものも、他所から引っ越してきたものも)メインに発表していきたいと思います。

どこまでお気に召すかはわかりませんが、やれることは全部やっていくつもりです。

よろしくお願いします。

 

(2016.8.30補足)

検索していて偶然気づいたのですが、どうも『High tech Low life』というドキュメンタリー映画があるようですね。元々はサイバーパンクTRPGShadowrun』のサプリメントから借用した言葉だったのですが、こちらも面白そうです。

www.youtube.com