High Tech & Low Life

アイダカズキの(主に小説用)ブログです

黒の日輪【6】包囲網

 「おい兄ちゃん、俺にもこいつと同じのを一人前くれや」給仕の青年に愛想よく声をかけてから、男は勝手に目の前へ座った。睨みつける視線に気づくと、わざとらしく掌を振ってみせる。「怖い顔すんなよ。それとも何か、前菜代わりに俺をかじろうってか?」

 失敗だった――彼は内心歯噛みしていた。空腹と疲労で警戒を怠ったこともだが、そもそもこの男が自分の目の前にいること自体、自分が致命的なミスをしたことの顕れだ。逃げるのは簡単だ。だがなぜこの男が自分の居場所を突き止めたか、それを知らずに逃げるのは単純に捕まる以上に、もっと危険だ。

「腹を空かせたけだものの仔が一匹、食い物の匂いに誘われて人里まで降りてきたか」男はテーブルの木目を意味もなくなぞりながら、頬杖をついてそう呟く。揶揄の欠片も含まない淡々とした口調が、かえって気に障った。

彼の視線に気づくと、男は頬を歪めて笑った。「そう悔しがるこたあないやな。いいじゃないかよ、確かに迂闊っちゃあ迂闊だが、その程度の可愛げ、誰にでもあっていいと思うぜ?万事そつのない犯罪者なんて、社会の害毒でしかないんだからな」

彼はただ黙って男を睨みつけた。敵か味方かわからない男に保護者面されるいわれはないと言いたかった。その時、給仕の青年が見事なバランスで両手に盆を持って運んできた。男は両掌を打ち合わせて乾いた音を立てる。「とりあえず飯だ。お前をさんざん探し回ったから腹が減ったよ」

何か文句を言ってやりたかったが、目の前に置かれた盆から立ち昇る芳香は空腹にはたまらないものだった。ハーブを浮かべた香辛料入りのスープ、海老と野菜が透けて見える生春巻、上に半熟卵が乗った挽肉入りご飯。見ているだけで口中に生唾が湧いてくる。

男も同様だったようで、いそいそと箸を手に取った。「細かい話は食ってからしようぜ」だがそこで思い直したように手を止め、「いただきます」と言った。それから、ばつが悪そうに呟いた。「俺の実家は躾に厳しくてよ。『いただきます』を言わないと、絶対に食わせてくれなかったんだ」

そう言われると何も言わずに食うのも気が咎めた。彼は軽く頭を下げ、いただきます、と言った。――普段よりはトーンを落とした声で。それからすぐに顔を下げて食べ始めた。顔を上げなくとも、目の前の男が妙に嬉しそうな顔をしているのがわかった。自分と男の両方に腹が立った。

しばらく、二人は一言も口を聞かずに食べた。

彼が一滴残らず中身を呑み干した椀を置くのと、目の前の男が最後の米の一粒を口に運ぶのは、呆れたことにほぼ同時だった。それに気づいた男が、してやったりと言わんばかりの笑顔を浮かべる。また腹が立った。

「さて。腹一杯になったところで」男が口を開いた瞬間、指の間に挟んだ二本の箸を男の顔面に突きつけた。店内の雑音が一瞬で途絶える。給仕の青年や周囲の客が凍りつく中、男はゆっくりと瞬きしてみせた。「危ないな。箸を人に向けちゃいけませんってパパとママに教わらなかったか?」

「何のつもりだ。どうして俺につきまとう」

「お前が逃げるからだろ。ここに来るまでどんだけ金と手間をかけたと思ってるんだ」男は突きつけられた箸を払いのけるように手を振ってみせた。「まあいい。お前にな、ぜひとも会わせたい人がいるんだ。一緒に来てくれや」

「断る。俺にはやることがある。それが終われば考えてやる」

「そりゃお前が今やってる、楽しい楽しい拷問ごっこのことか?」返事の代わりに箸をさらに男の目に近づけたが、微動だにしない。「おかげで街のちんぴらまでもがぴりぴりしてやがる。お前について話を聞こうとしたら、行く先々で怖い連中が湧いてくるんだぜ。俺がどんだけうんざりさせられたか、ちったあ想像してほしいもんだ」

「何か用があるんならそいつから来い。もっとも俺も当分潜らせてもらうが。今日みたいなへまはそうそうしない」

「そりゃよかった」男はどうでもよさそうにいい――そして手を動かした。

とっさに顔を反らしたのはほとんど本能だったが、結果的にそれは正しかった。男の袖口から強烈な閃光が放たれる。半目になっていてさえ、目の裏まで焼きつくようなまばゆい光。

だが一瞬の隙が仇になった。箸を持つ右手が払われ、真下から掴み直される。しまったと思った瞬間には視界が一回転していた。内臓が浮く一瞬の浮遊感の後、背からテーブルに叩きつけられていた。

彼の全体重を受け止め損ねたテーブルが背で潰れる感触。木片と陶器の破片を撒き散らし、大音響とともに彼は床に叩きつけられた。衝撃に呼吸が止まる。逆さの視界に、男がこれみよがしに袖口に仕込んだ何かを見せつけた。

「フラッシュライトだ。悪いがズルさせてもらった。俺がまともに殴り合いで勝負するとでも思ったか?」肩をすくめてみせる。「ひきずってでも連れてこいとの仰せでな。お前には拒否権もなければミランダ警告もなしだ」

そうかよ――口中で呟く。じゃ、こっちも「容赦なし」だ。

仰向けのまま両手を床に就き、全体重を乗せた両足蹴りを男の顔面に放った。さすがに予想外だったか、男が驚愕の表情。それでも腕で蹴りを防いだのはさすがだが、それが彼の狙いだった。後方へ宙返りし、距離を稼ぐ。

「抵抗するのは勝手だが、意味がわからねえぞ、けだものの坊や……」なぜか男は、にやりと笑ってみせた。「人里にまぎれようったって、狩りたてられて、てっぽうで撃ち殺されるのが落ちだろうに……」

もう耳を貸したくなかった。近くのテーブルから碗をひったくり、中身をぶちまける。

もうもうと立ち昇る白煙。周囲の客が怒声と悲鳴を上げてのけぞった隙に、禿げかかった額に手を突いて跳躍し、隣の客の肩を踏み台に店の外へ大きく跳躍した。通りかかったバイクが急ブレーキをかける。その荷台をさらに蹴って、低い隣家の屋根に飛び乗る。

振り向かず、そのまま全力疾走に移った。男は追ってこなかったが、その意味を考えようとは思わなかった。

「すげえ動き。何だよあいつ。猿飛佐助か何かか?」頭を振った男は、ふと振り向いた。食事を台無しにされた客たちの怒りの視線と、給仕の青年の哀しげな眼差しが男一人に注がれていた。「これ……やっぱり俺が弁償すんのかな」

 

【〈物見〉より〈星〉へ。〈蛇〉が動き始めました。ご指示を】
【〈星〉より〈物見〉へ。まだ対処は無用です。巣穴に戻り次第、こちらで確保に移ります。予想外の事態に備え、警戒は怠らないで】

【しかし、確実を期すならやはり増援の要請を——】

【〈蛇〉が賓客を殺し、巣穴を放棄する可能性は低くありません。今必要なのは時間です】

【――了解。ただし、具申は致しましたよ】

 

饐えた空気の立ち込める倉庫へ、彼は戻ってきた。捕らえたイゴールの様子を見ると、彼は戒められたまま傷だらけの顔でいびきをかいていた。なんとなくほっとはしたが、安心してばかりいられないことにも気づいた。あの男なら早晩ここの位置も嗅ぎつけるだろう。その前に移動しなければ。

イゴールの利用価値ももうない。安全な場所に逃げた後なら解放したところで――そこまで考えて、彼は自分の過ちに気づいた。もしかすると、もう遅かったのかもしれない。

姿も物音もないが、何者かが近くにいる。もう、倉庫の中にまで入ってきている。

誰何などする気はなかった。彼は身をかがめ、侵入者の気配を感じ取ることに集中した。

倉庫の床は砕けたコンクリ片や錆びたボルトなどが散乱しているが(ここをまがりなりにも通れるようにするには一手間だった)驚くほど物音を立てない。特殊な素材のブーツでも履いているのか。

「だ、誰だお前……?」眠りこんでいたイゴールが顔を上げる気配。「も、もしかして俺を助けに来てくれたのか?だったらあの糞野郎をぶち殺してくれ……いや、それよりまずほどいてくれ!お礼は幾らでもする、いくらでも!」

まるでシャンパンの栓を抜いたような、くぐもった射出音が数回。それが返事だった。苦痛というより何かに驚いたような吐息。そして、耳の痛くなるような沈黙。

一定の間隔を置いて、何かが床に滴り落ちる音。彼は頭を巡らせた。どうやら、侵入者は第一目標を果たしたらしい。では第二目標は?

侵入者の気配が動き出す。大小何かの破片が散乱する床を物音一つ立てず、凄まじい速さで。奇妙なほど冷えた頭で、なるほど、と納得した。

反射的に身を翻す。再びあのくぐもった音。数秒前まで彼の頭があった空間を飛翔体が貫き、壁に火花を散らす。暗さと距離を考えれば恐るべき精確さだ。

しかしどうする?飛び道具の威力は侮れるものではないし、追手は凄まじい速さで追いすがってくる。何より、侵入者があいつだけとは断定できない。どうする?どうやって、勝つ?

不意に笑いの衝動に捉えられ、彼は唇を歪めた。イゴールから引き出せた情報はとても労力に見合う成果ではなかったが、思わぬ副産物をもたらしたわけだ。俺の追うものが妄想ではないとわかっただけでも素晴らしいじゃないか。

暗い笑いと共に彼は決意した。撃退するだけではもったいない。これ以上は無理というほど泥を吐かせてやる。――それが俺のできる、あの人への、せめてもの弔いだ。

黒の日輪【5】追跡と尋問

 「こんなことをしてただで済むと思っているのか?」

四肢を縛られた不自由な姿で、イゴール・ザトヴォルスキーは必死に身をよじっていた。デスクライトの光が顔面に向けられ、目をまともに開けていられない。「お前がどこの誰だろうと、この礼は必ずするぞ……お前だけじゃない、お前の一族郎党にもな……」

「脅し文句としちゃ陳腐だな、ザトヴォルスキーさん」響いてくる声に感じ入った様子は微塵もなかった。「俺の家族構成にまで思いを馳せていただけるなんて汗顔の至りだ。でも、俺だってあんたについてそれなりに調べたんだぜ。表裏両面のビジネスも、あんたの家族や若い愛人のこともな」

「お前、この国のサツじゃないよな……あいつらにこんな無茶苦茶ができるわけがねえ……チャイナやコリアとはこの前手打ちしたばかりだ……ヤクザなのか?日本のオルガニザーチャ(犯罪組織)なのか?今になって俺相手に憂さ晴らしなんてお笑いだぜ!この国はもう乗っ取られたも同然なのにな!」

返ってきたのは含み笑いだった。「まあ、あんたに想像できるのはそのくらいだろう。好きに想像しておけばいいさ、想像は万人の自由だからな」何かを取り上げるごとりという音。「それよりあんた、自分のこれからについて想像した方がいいんじゃないかね……?」

大振りの布裁ち鋏が、余計な前置き一つなしに袖口を切り裂いた。最近目立つ腹肉が気になってきたので、思い切って奮発したオーダーメイドのスーツだ。

「おい貴様何しやがる......幾らしたと思ってるんだ!?」

「高かったんだろうな、わかるよ。あんたのぶくぶく肥え太った身体を見栄えのするように繕うのは、なかなか挑戦し甲斐のある仕事だったんだろうな。いい買い物をしたと思うよ。だからやるのさ」

声も、鋏の動きも止まらない。「このスーツだけじゃない、あんたはいろいろなものに守られている。優秀なボディガードと番犬、豪邸とセキュリティシステム、そして地位と名声。たくさんのものがあんたを包んでいる。まるで赤ちゃんのおくるみみたいにな。自分には誰も手出しできないと思い込んでいる。だから、まずはそれを奪うのさ。そうすれば、自分がいかに脆くて儚い生き物かわかるだろう」

冷たい金属が汗ばんだ肌の上を滑る。スーツは瞬く間にワイシャツごと切り裂かれ、無数の布片となってしまった。今まで感じなかった寒さに、イゴールは総毛立つ。

「ほら、自分がいかに脆くて儚い生き物か、そろそろ実感が湧いてきただろう?」

 

「……ひどい、こんな綺麗な車なのに……」スクラップと化したそれを見た瞬間から、青年は泣かんばかりだった。「これを壊した人は、車について相当勉強したんだと思います。でも、それを......こんなひどい形で使うなんて……」

本当に目を潤ませている作業服の大柄な青年を見て、男は開いた口が塞がらなくなった。「いやあのな、それはわかってるんだわ原田君。わかってるから、『犯人』がどういう手口を使ったか説明してくんないかな。俺、キミほど車に詳しくないからさ」

「はい、そうですよね……ごめんなさい……」青年は袖口で目元をぬぐったが、それでもまだ鼻をすすっていた。「最近は会社の重役や社長クラスの人がこのタイプの防弾防爆仕様車をよく発注していますから、僕の工場でもよく見かけるんです。だから、見当はつきます」

青年の指がタブレットの上で踊り、車の立体図を表示させる。

「防弾ガラスは強化ガラスとポリカーボネイトとの2重構造で銃弾を防ぎます。これによりたとえ銃弾がガラスを破損しても、ラミネートされたプラスチック膜が衝撃を分散、中の人員を守るわけです。『犯人』はこれに極低温の液体をかけることでガラスを脆くし、膜を劣化させたんでしょう」

人が変わったような滑らかな語り口に男は感心する。正直、この青年も「候補」の一人ではあったのだが、メンタルの弱さは致命的だ。まあ現状では補欠と言ったところか。

「運転制御システムへのハッキングは?」

「今の車は走るコンピュータみたいなものですから、高度であればあるほどハッキングには脆弱になります。今回はカーナビからですが、車内で携帯機器をいじっていればそれを踏み台に無線LAN経由で侵入することも不可能じゃありません。今後はうちの工場でも対策を考えないと……」

まさにSFだなあ、と男は呟く。「いや、しかし助かったよ原田君。正直俺一人じゃ手詰まりだったもんでね」大柄な青年はまるで少女のようにはにかむ。「とんでもないです……これを調べるだけで、あんなに貰っていいんですか?」

「ああ、コンサルタント料だと思ってくれ。何か旨いものでも食いなよ」

「なあおい、和気あいあいとしているところ悪いが、俺の車を全損にしやがった野郎の目星はついたのか、望月さんよ?」粗末なパイプ椅子に逆向きに座った趙安国が、不機嫌そうに椅子をがたがたさせながら口を挟んできた。「俺はそのために恥を堪えて、何もかも喋ったんだぜ?」

不機嫌そうな趙に、青年は巨体を縮めて恐縮したが、男はわざとらしく溜め息をついた。「そう急くなって趙さん、手口がわかれば次に打つ手も大体限られてくるってもんだ。慌てる何とかは貰いが少ないって言葉、あんたの国にもあるだろ?よくは知らんけど、何か四字熟語でそれっぽい奴が」

 「余計な御世話だ。とにかく、その豚野郎の寝ぐらを突きとめたら真っ先に教えてくれよ。相応の礼はする。結局商売には大穴を開けちまったし、大金はたいて雇った護衛は利き指を折られて当分使い物にならないんだ」

「ああ、そのことなんだが、金は要らないんだ。その代わり2つ条件がある」

「何だ?」

「報酬は別のところから出ることになっているんだ。だからあんたがそれを守ってくれれば、必ずそいつを探し出してやる。駄目なら俺の素っ首でも金玉でも好きなだけ持っていけばいいさ。もっとも失敗した時、俺に両方とも残っているかどうか大いに怪しいがな」

「……いいだろう」

「まず1つ。あんたら〈密売人〉のコミュニティに動きがあったらすぐに知らせること。俺だって先を越されたくはないし、あんたも死体を土産に持ってこられても困るだろう」

「なるほど道理だ」

「2つ。この件の始末は、俺に全部任せること」

「おい、そりゃないだろう!?コケにされたのは俺なんだぜ、俺自身が野郎を切り刻みでもしなきゃ、この国で商売やってくどころじゃねえ、ずっと笑い者にされっちまう!」

「その心配はないだろう?笑い者にされているのはあんた一人じゃないんだからさ」

「何の話だ?」

「おとぼけはなしだぜ。あんたらだけじゃねえ、インド人もロシア人も、とにかくご禁制のブツを扱ってる奴らは今、血眼になってらあ。なあ趙さんよ、この件に関しちゃ俺がきっちり型にはめてやる。だから、自分の手で復讐するのは諦めろ」

趙は眼前の男こそが犯人だと言わんばかりの目つきをしていたが、やがて頷いた。「……わかった。だが、今の言葉は忘れるなよ」

 

 「……拷問ってのは、あれはあれでなかなか難しいんだってな。やりすぎて殺しちまっちゃ拷問にならないし、拷問される側が苦痛から逃げるために出鱈目や偽の情報をでっちあげちまうこともある……イラク戦争でCIAがやらかした拷問も、どこまで有効だったか怪しいらしいしな」

ゆっくりとした、語り掛けるような口調の背後に水の滴る音が混じる。そして微かな呻き声も。

「それよりはまず穏やかな話で相手の心を開かせ、好意と信頼を得てそいつの方から自発的に喋らせた方がいいって説もある。どっちが正しいのか、俺にはわからない。その筋の専門家ってわけでもないしな。ただ一つだけ言えるのは……」

彼は水に濡れて重くなったタオルで、思い切りイゴールの顔面を張り飛ばした。びしゃりという音とともに太り肉の顔が衝撃で揺れ、鼻から血が噴き出す。「俺はあんたの好意も信頼も、どちらも欲しくないってことだ」

どくどくと鼻孔から血を垂れ流しながらも、イゴールは口元を歪めてみせた。嘲笑おうとしたらしい。

「大したことないって、お前のやることはこの程度かって思ってるな?いいさ、今のうち笑ってろよ。その方が後で楽になる」

「もう一度最初から聞くぞ。17年前、沖縄、偽装核、『ネクタール』、HW。これらの言葉に聞き覚えはあるか?」

 

――遥か高空から自分を見下ろす「目」があることに、まだ彼は気づいていない。

 

ぽたり、ぽたり、とタオルの先から液体が滴る。水と、それに混じった血の色。

「あれこれ考えたんだが、爪を剥いだり指を切り落としたりってやり方はやめたよ。感染症でも起こされたら素人にはどうしようもないからな。だから一番単純な方法にした。つまり......死なない程度に殴る」彼は水に濡らしたタオルで、イゴール・ザトヴォルスキーの横面を思い切り張り飛ばした。

「そろそろ効いてきたんじゃないのか?初めは何だこんなもんか、と思っていた一発一発が、そろそろ辛くなってくる頃だろう?」返す手で反対側の横面を張る。「『脳を揺らされる』のが、長い目で見ると一番効くやり方だからな」

事実、イゴールにはもうせせら笑う余裕もないようだった。その顔面はサッカーボールのように腫れ上がり、どす黒く鬱血している。鼻孔と口の端から鼓動に合わせて血が滴り落ちている。忌々しげに見上げてくる眼光にも、目を覚ました時ほどの迫力がない。

「質問に戻ろうか。一番簡単な奴から始めるぞ。17年前、沖縄。何を連想する?」

「家に帰って……お袋とやってろ」

物も言わず、濡れタオルを振るった。イゴールの首が激しく揺れ、血と唾液が飛沫になって飛んだ。「汚い言葉を使うなって、お母さんに教わらなかったか?」

イゴールは酷くむせた。咳がおさまってからも、笛を鳴らすような呼吸音はなかなか元に戻らなかった。

 「そんなに難しい質問をしたか?それとも今の質問の答えがそれか?ならもう一発」

濡れタオルを振り上げると、イゴールは必死で首を振った。何か言おうとしているようだが、血混じりの涎が口の端から滴り落ちるだけで言葉にならない。「……言えば殴らない」彼はうんざりして手を下ろした。自分の手が殴りすぎて痺れ始めていることに気づく。

「畜生が、なんで……なんで俺なんかを痛めつける必要があるんだ……俺はただの『運送屋』なんだぞ……」

「その運送屋さんに用があるってさっきから言ってるだろ。いいから話せ」

「17年前でオキナワって言ったら、一つしかねえ……〈第2次オキナワ上陸戦〉だ」

「思い当たるところがあるじゃないか」彼は失笑した。「〈上陸戦〉と名の付いている割には、実際はちっとばかり大規模なテロに過ぎなかったはずだがな」

「だが被害は甚大だ……何しろ那覇市そのものが、小型戦術核で吹っ飛んだんだからな。ああ、覚えているさ……当時の俺は本当に使いっ走りで、あの頃のオキナワは運び屋が何人いても足りない状態だったからな」イゴールは滑らかに喋り出した。喋っている間は殴られないことに思い当たったらしい。「今思い出しても怪しげな連中がうようよしてた。初めは軍需物資、後半は救援物資」

「まさに無辜の人々の生き血をすすったってわけだ……」

「何とでも言え。必要とされているから、俺たちはそこへ行ったんだよ。良き商売はそこにある、って奴だ」笑おうとして失敗し、イゴールは咳き込んだ。「その程度の情報なんて、ネットを漁ればすぐ拾えるんじゃないか?俺に聞くまでもなく」

「察しがいいな。俺が聞きたいのはその『先』だよ」声がその若さに似合わない陰々滅々とした響きを帯びた。「あの日海兵隊の通信施設と補給基地を襲った国籍不明の特殊部隊は、ヨーロッパ製の最新式火器とハードウェア群を装備していた。襲撃者たちの身元は一切公表されず……調査チームは組織されたようだが、結局成果を上げる前に解散。中国軍の特殊部隊という説もあるが、それだって推測の域を出ない」

「そりゃそうだ、不正規戦部隊がご丁寧に自分の国の火器を使うわけもないだろ?」

「あんたなら知ってるんじゃないかと思ってね。当時の『空気』を肌で感じていたあんたなら」

「知るわけがないだろう、それともお前もあれか?米帝の陰謀とやらを信じているクチか?頭にアルミホイルでも巻いてろ!」哄笑が、途中で凍りついた。

「やめろ!」遅かった。唸りを上げる濡れタオルが真正面から振り下ろされた。まるで本当に拳を食らったように鼻血が飛び散る。さらに横面に二発、三発。「やめろ!やめてくれ!喋ってるだろう、殴らないでくれよ!頼むから!」

「……聞かれたことにだけ答えろ」さすがに肩で息をしなければならなかった。「今羽振りのいい〈業者〉は、どいつもこいつも当時の沖縄で荒稼ぎした奴らだ。お前が取るに足らないと思っていることでも、俺にとってはそうじゃないかも知れない……次の質問だ。『ネクタール』という名前の意味は?」

「た、確かに知ってる……インドの何とかって製薬会社が作った麻酔薬だ。副作用が強すぎるから発売中止になったが、サンプルの一部が流出して合成麻薬として売りに出されたらしい……だが妙なんだ、17年前を境にふっつりと流通ルートに上がらなくなった。まるで最初からなかったみたいに」

「名前とルートを変えたか、〈業者〉に頼る必要がなくなったのか……だな。『偽装核』は?」

「押収された襲撃部隊の『核』は、精巧に作られたレプリカだったって話だろ?それは本当に知らん。CIAの陰謀なんて、それこそ真に受けたくもない馬鹿話だろ」

「……よし。じゃ最後の質問だ」

声が隠し切れない熱を帯びた。

「『HW』。これだけがどうしてもわからない。何の略称なのかさえ。17年前の沖縄の真実とやらを吹聴して回る奴らも、これについては何一つ言わない。まるで台風の目みたいに……逆に言えば、こいつはあの〈第2次オキナワ上陸戦〉の核心となる『何か』なんだ」

「俺は知らない。それだって他と同様、どうでもいいもんに決まってる。さっさと俺を解放して、政府の陰謀と戦ってろよ。お前の頭の中にだけにある、ありもしない陰謀とな」

「......そんなはずはない」声が震えるのを抑えられなかった。

「そうか、お前、知り合いか!知り合いがあの時、あそこにいたのか!」まるで最後の力を振り絞ったような凄まじい哄笑。

堪え切れず、濡れタオルを振り下ろした。5度、6度、7度、8度。

室内に響く、荒い自分の呼気で我に返った。イゴールはすすり泣いていた――度の過ぎた折檻を受けた子供のように。手から濡れタオルが滑り落ちたが、もう拾いたくなかった。彼はよろめくようにして部屋を出、壁に向かって嘔吐した。

 

やや間を置いて、彼はのろのろと動き出した。彼自身も疲れ果てていた。腹も減っていた。外の空気が吸いたかった。何より、すすり泣くイゴールと一緒にいたくなかった。

外に出ると静かで穏やかな昼前の晴天が広がっていた。見上げた空をゆっくりと横切っていく飛行機雲。遠くの高速道路上をのろのろと進む乗用車の列。風が埋立地の乾いた砂を舞い上げる。すべてが、今の自分にそぐわないと思った。

埋立地を出て、雑踏に入る。飛び交う無数の言語、入り混じる香辛料の匂い。暗い軒先を覗くと、ままならない人生に歩くのも嫌になったという風情の男女が昼間から一杯傾けている。誰も彼に構わない。彼も誰にも構わない。誰も彼もが他人という雑踏を歩いていると、孤独が少しだけ和らいだ。

旨そうな匂いが鼻孔を突いた。今にも崩れそうなビルの一角を強引に仕立て直した、数人座れば一杯になりそうな料理店。空腹には耐えがたい誘惑だった。半ば無意識のまま、彼は店に入った。

やたらと愛想の良い浅黒い肌の青年にメニューを指さして見せる。言葉は通じなかったが、意味は通じた。青年が厨房に消えると、疲労が全身に襲いかかってきた。尋問中は休憩どころかろくに座りさえしなかったのだから無理もない。

「……悪いね。ここ、いいかな?」

かけられた声に目を上げて、彼は凍りついた。旧友に偶然出くわしたような顔で目の前に腰を下ろしたのは、あの「追跡者」の男だった。

黒の日輪【4】接触

この部屋にいると、重々しい柱時計の音がまるで祖父の鼓動のようだ、と彼女は思う。とうの昔にこの世を去った祖父の心臓の鼓動に。では私は、今もまだ祖父の胎内にいるということになるのだろうか。

指先で艶やかな黒檀のデスクを軽く撫でる。これだけではない。窓のカーテンも、資料棚も、壁も床も、すべて黒い。祖父のことは好きだったが、この部屋だけは昔から何だか怖かったことを覚えている。真夏でも室内の空気は冷たく静かで、祖父の膝に這いあがろうと近づく時でさえ、少し息を詰めた。

祖父の死後、彼女は自分の居室をここに決めた。手を加えるのは最低限にした。小物類まで黒に統一するのは無理だったが、それでさえ祖父の部屋にぽつりと残った針先ほどの小さな染みにしか見えなかった。それでいいと思った。祖父のよすがを完全に除去しようとは思わなかった。

卓上電話が軽やかな電子音を立てた。受話器を取ると、聞き覚えのある男の声が流れ出た。

【捉えました。市内へ向かっています】挨拶抜きで相手は要件を切り出した――彼女がそれでいい、と言ったからだ。【ここ数日、郊外のカプセルホテルを転々としていたようです。買い物も済ませ、いざピクニックへ出発、といったところですかね】

減らず口を我慢できない点に目をつぶれば、男は実に有能なリサーチャーだった。【ブツを手に入れた以上、奴にもう我慢する理由はないんでしょう。少しだけ顔を見ましたが、今にも何かしでかしそうなツラでした。やる気ですよ、奴は】

背筋に戦慄が走った。事態は予想以上に急転しつつある――それも最悪の方向へ。

「彼を抑えてください。できれば、市内へ入る前に」

【努力はします。ただ難しいでしょう。奴の性格からして無関係な人間を巻き込むことは極力避けるでしょうが。問題はその、閾値だ】

「お願いします」

【そうだ、奴の中学時代の担任と友人に会いました。後で送ります――興味深いですよ】通話は切れた。彼女は手の中の受話器を見つめた。なぜ自分がそんなものを持っているのかわからないような顔で。

受話器を元の位置に戻す、それだけの作業にひどく時間がかかった。震える手でそれを置いた瞬間――右肩に凄まじい激痛を感じた。身をよじりながら、ああまただ、と思った。何年も前に癒えたはずの古傷が発する、存在しないはずの痛み。祖父が死の間際、最後に自分に与えていったもの。

受身すら取れず、椅子から転げ落ちた。右肩が燃える。悲鳴すら上げられず、右手の指先だけが電流でも流されたようにびくびくと痙攣するのを歪んだ視界の端で捉えた。そして耳の奥で弾ける、祖父の凄まじい怒声。今際の怒声。『牝犬の息子と!淫売の娘が!そろって私をたばかったな!』

違います――違うんです、お祖父様――私はあなたを裏切ったことは一度もありません――今までも、そしてこれからも――声にならなかった。呻き声一つ上げられず、彼女は失神した。

「ご当主。……ご当主?」

ドアの外からの心配そうな声に、彼女は眼を開けた。返事をするために、渾身の力を振り絞らなければならなかった。「……ごめんなさい。少し、躓いただけです。心配してくれてありがとう」

声は躊躇いがちにドアのすぐ外に佇んでいたが、彼女がもう一度「大丈夫です」と言うと、ゆっくりとその場を離れた。彼女はよじ登るようにして椅子に這い上がった。全身が冷や汗にまみれ、指先はまだ酷く震えていたが、誰かを呼ぶ気にはならなかった。誰にも、自分の今の姿を見られたくなかった。

――呼吸を整え、目を見開いた時、卓上のホルダーに入れられた一枚の写真が目に入った。無意識の内に、手が伸びていた。指先でそっとなぞる。写真の中の、青白く痩せた、服に着られているような少年の顔を。

「……静かで穏やかな人生をあなたに歩んでほしい、それが私の偽らざる思いでした。でもそれは、あなたにとっては地獄でしかなかったのですか?」

答えがあるはずもない。写真を戻し、卓上の受話器を取る。指先の震えが止まっていることを確かめる。深夜にも関わらず、相手はワンコールで出た。

「私です。例の計画を実行します」

 

目的地まであと停留所二つ分の距離でその男は車内に乗り込んできた。短く刈った頭髪、着心地の良さそうな麻のスーツ、綺麗に磨かれた革靴。中肉中背の、どちらかと言えば目立たない外観の男。気軽そうな足取りに反し、靴音が一切聞こえない。一目で直感した――こいつは追跡者だ。

これから行うことに逡巡を覚えなかったわけではない。余計な「紐」がくっついていることを思えば尚更だ。だが考えてみれば、行動を中断したからと言ってこの男が自分を見逃すわけでもない。希少な機会を逃し、追跡者を振り切る手間だけが残る。半月近い準備の結果としては面白くないオチだ。

むしろ――少し、口元を緩めた。これからやることの一切合財をあいつに見てもらうのも一興かも知れない。さぞかし度肝を抜かれるだろう。その顔をじっくり見られないのが残念なくらいだ。

(……何を考えている?)

降車ドア近くの座席に腰を下ろした「彼」の背中を見て、男はいぶかしんだ。ぼさぼさの頭髪と、お洒落とはほど遠いモスグリーンのハーフコート。周囲より頭一つ高い上背と暗い目つき以外、ぼんやりと手元の携帯をいじっている様子はそのへんの若者と変わらなかった。

ひどく眠そうな目つきのサラリーマン、散歩中らしき杖をついた老婆、単語帳を手にした小テストの準備に余念のない中学生たち。いつもの朝の通勤バスの光景だった。「彼」は立ち上がり、立っていた老婆に席を譲ろうとした。男は呆れた――模範的な市民じゃねえか。

もごもごと聞き取りにくい声で礼を言って座る老婆に「彼」は軽く頭を下げ、立ったまま携帯の画面に目を落とした。バスが止まり、停留所から乗客たちが乗り込んでくる。市内まであと停留所一つ分、数百メートルの距離。

ずいぶんと見事に猫かぶったもんだ、男は口中で呟く。その若さで大した自制心だよ。俺がお前ぐらいの頃を思えば尚更だ。だがそれで、お前が得られたものは何だ?世間一般がお前に下した評価はどうだ?それはお前にとって、相応しいと言えるものだったのか?

中学時代の教論の話――「ええ、あの子のことは良く覚えていますよ。大人しくて真面目で、少し陰気ではありましたけど、陰険ではありませんでした。口数は少ないけど、口を開く時は気の利いた冗談で受けを取っていたみたいですし......本も好きで、良く図書室で過ごしていました。『すばらしき新世界』を読んでいるのを見て、私がずいぶん難しい本を読むのね、と言うと、不思議そうな顔をされましたよ。全然難しくありません、すごく面白いですよ、って。だから私、あの子はきっと将来素晴らしい人物になるって思ってたんです」

元クラスメートの話――「あいつと同じクラスになったのは中3だったかな。入学したての頃はがりがりに痩せてたらしいけど、1年ぐらいですごい勢いで身体がでかくなり始めたみたいだ。周りはみんな怖がってたよ。話してみればいい奴だってすぐわかるのに。

身体を鍛えていたせいもあったんだろうな。鬼気迫る、って言ってもおおげさじゃないくらいだった。みんな噂してたよ、将来人でも殺すつもりなんじゃないかって。本人は真にも受けてなかったけどな。

女の子とは……付き合っていた子は何人かいたみたいだけど、長続きはしなかったみたいだ。本人に言わせれば別れ際に『人の魂がない』ってさんざん罵られたってさ。中学生のガキが魂って何だよ、って思わず笑っちまったけどな。あいつも苦笑いはしてたよ。

いい奴には違いなかったから、きっと俺たちなんぞとは比べ物にならないくらい大物になるんだって思ってたよ。実際、そうなるはずだったんだ……あんな事件さえ起きなければ」

いい子、いい奴、いい生徒――思い出しながら男は呟く。そう、お前を知る奴は皆口をそろえる。あんな事件さえ起きなければ、ってな。だが俺はそうは思わない。あの事件が起きなくとも、お前の人生は別の形で破綻していたろうよ。さぞかし窮屈だったろう、真人間のふりをして生きるのは?

お前の犯した本当の罪を教えてやろうか。人を死なせたことか?確かに罪は罪だが、ありふれた罪でしかない。お前の本当の罪はな――けだものの子の分際で、人の世に生まれ落ちたけだものの子の分際で、真っ当な人間として生きようとしたことだ。

しかしどうしたものかな、男は考える。市内に入る前に抑えてほしいというのが彼女の依頼だが、見たところ今の奴は大人しい。このまま市内に入り、人気のない場所まで尾行してから――そこまで考えて気づいた。バスが停まっている。

「変だなあ、この道こんなに混むっけ?」「これじゃ着いてもHRぎりぎりだよ……」中学生たちの会話が耳に入る。嫌な予感。朝の渋滞など珍しくもないが、このタイミングで――ひどく胸騒ぎがする。

 

「おい、さっきから全然動かねえぞ!どうなってやがる?」車の後部座席でイゴール・ザトヴォルスキーは苛立った声を上げた。今回の「商談」は最近だぶつき気味だった大量のカラシニコフ自動小銃をさばけるまたとない機会なのだ。

「すみませんボス、どうも今日に限って渋滞が……」

「すみませんで済むか!今回の相手は時間にうるせえんだ、取引が流れっちまう!」運転手の言い訳にさらに腹を立て、眼前のシートを蹴りつけた。「まったく何てえ国だ!夏は暑くて湿ってる、冬は寒くて湿ってる。おまけに渋滞まで酷いのかよ!」

 

【車が動きます。おつかまりください】のろのろ動き出した車体に乗客たちが溜め息をつく。嫌な予感が膨れ上がった――そしてそれは的中した。次の瞬間、凄まじい衝撃が車体を襲った。耳障りなブレーキ音。悲鳴を上げてある者は床に転げ、ある者は手近な柱にしがみつく。

混乱の中、「彼」だけが的確に動いていた。首のスカーフを口元まで引き上げ、自然な動きでコートのポケットに手を滑り込ませる。抜き出した手には手品のようにスプレー缶が握られていた。ほとんど一挙動で、車内の監視カメラに塗料を吹き付ける。続く動きで、もう非常用開閉レバーのカバーを叩き割り、ぐいと引いていた。

【お客様、危険です!外に出ないでください!】運転手の悲鳴に近い警告を無視し、「彼」はドアを蹴破るようにして車外に飛び出していた。周囲では似たような大混乱が巻き起こっていた。周囲で車同士が玉突きに衝突し、路上の信号機が出鱈目に明滅している。

「……嘘だろ!?」自分で目にしてなお男は信じられなかった。「彼」はゴミ収集箱に突っ込んで停まった一台の車のウィンドウに、水筒に入れた何かの液体をぶちまけたところだった。白濁したガラスに容赦なくボルトニッパーの先端を突き入れる。おそらく防弾仕様のガラスが、容易くはぜ割れた。

ライフル弾さえ弾き返す防弾ガラスが粉々に割れ、鋼鉄の嘴のようなボルトニッパーの先端が鼻先まで突き入れられる。悲鳴を上げたイゴールは、黒い手袋に覆われた巨大な掌が自分の顔面に迫ってくるのを見て、もっと大きな悲鳴を上げた。

「彼」がまるで犬のリードでも引っ張るように、太り気味の男のネクタイを荒々しくつかんで割れた車の窓から引きずり出すのが見えた。馬鹿みたいに口を開けるしかなかった。あいつ、よりによってここでおっぱじめやがった……!

バスは陸橋の上で停車していた。しかし、ここからどうやって逃げるつもりだ?とっくに通報はされているだろうし、この渋滞では車で逃げようが――思った時、男の耳が近づいてくる轟音を捉えた。腹の底に響く貨物列車の走行音。まさか!

悪い予感はまたも的中した。速度を落としつつある貨物列車の屋根へ、「彼」は手摺近くまで引きずってきた男を無造作に蹴落とし、自らも身を投げた。

あいつがチェックしていたのは「目標」の現在地と、貨物列車の通過時刻か――怒声と泣き声が飛び交う中、男は携帯を耳に当てる。ワンコールで相手は出た。

「……逃がしました」

 

――ザトヴォルスキーはゆっくりと目を開け、まぶしさにすぐ目を閉じた。強い光が顔面に当てられ、まともに目を開けていられない。身をよじろうとしたが、ワイヤーのようなもので縛られてびくとも動けない。全身がずきずき痛むのに、身動き一つできない。

「どこだ、ここは......?おい、ほどいてくれよ……大事な商談があるんだ……」

傍らに人の気配が立った。顔は見えなくとも、その眼差しがこちらに注がれているのがわかった。

「諦めた方がいいな。車の事故なら先方も文句は言わないさ」やや硬いが、正確なロシア語。若い声ということぐらいしかわからない。

「いくつか聞きたいことがあるんだ、ザトヴォルスキーさん。安心しろ、全部喋るまで絶対に殺さないから」

黒の日輪【3】犯罪の犬ども

地主が夜逃げして土地ごと放棄された貸しコンテナが数十平方メートルに渡って居並ぶ湾岸エリア。雨ざらしのコンテナ群から住民たちの生活臭が否応なしに漂う。コンテナ間のロープに渡された生乾きの洗濯物、羽毛をむしられた鶏を煮込む土鍋、キムチと豆板醤とコリアンダーの入り混じった刺激臭。

自分がふさわしくない異物であるという思いに、彼の足はそこを通るたびいつも早足になった。一日中同じ場所に座り込んでいる老婆に持っていたコンビニのビニール袋を手渡す。老婆はもごもごと聞き取れない礼を言い、手まで合わせる。目をそらせ、目的のコンテナに入ってドアを閉めた。

錠を確かめ、天井の裸電球を着けると、さすがに今まで感じなかった疲労を感じた。肉体的な疲労だけではない、ここ数日間の努力が徒労に終わったことへの疲労。わかったことは、自分の読みが外れていたということだけ。それも貴重な金と時間と物資を浪費した揚句、だ。

ペットボトルの水を一口含み、少し頭にも被る。こんなことを繰り返して、意味があるのか――頭をもたげてくる弱気を無理やりねじ伏せる。時間は確実に消費している。今すぐ、できることをしなければ。

端末を起動させる。無骨な作業机の上に、買い込んできた資材を並べる。端末を参照しながら、決められた手順で決められた個所に部品を加工し、組み込んでいく。ケーキを焼くのと同じだ――耳の奥に懐かしい声が聞こえる。決められた材料を正しい容量で、時間通りに焼き上げるだけだ、と。

もし自分が死ねば、あの男から教えられた全ても共に消滅するのだろうか。――振り払い、手を動かすことに集中する。死後の世界のことなど、それこそ死んだ後で考えればいい。

 

「……ええ、誰にレクチャーされたのか知らんが慣れてますな。『ご禁制の品』は最小限、しかも複数の〈業者〉から少しずつ購入。必要な物資はそこらのディスカウントショップで入手可能。よっぽど筋の良い〈インストラクター〉から手ほどきされたらしい」

【彼が購入した物品のリストを送ってください】打てば響くような、彼女の涼やかな声が返る。

「ただちに」そうくると思ったよ、あらかじめ準備しておいたリストを送信する。一瞬の後、回線の向こうで明らかに息を呑む気配があり、男は少しばかり溜飲を下げた。

「見ての通りです」

【銃器や爆発物の類は見当たりませんが……】

「こけおどしの銃器に頼るつもりがないってことは、本気でしょう。奴はたった一人で戦争を始めるつもりですよ」

【彼の次の『目標』はわかりますか?】

「見当はつきます。俺が奴なら、それなりに目立つ奴を狙うでしょう」

【急いでください。彼が次の犯行に出るまでに】

「それはかまいませんが、止めるとなるとだいぶ荒っぽくなりますよ、俺のやり口はご存じでしょう?」

【やむを得ません……方法は任せます】

「……任せます、ね……」通話を切ってから、崇は一人ごちた。「どのくらい荒っぽくなるかは俺が決めていいってことなんでしょうな、ご当主」

それから、先ほど自分が送信したリストをもう一度見直す。「……お前がこれを何に使うか、想像しただけで背筋が寒くなるよ。生き急ぎやがって、餓鬼が」

 

――充電完了を知らせる軽い電子音。準備ができた、彼は微笑んだ。やはり電気の使える「部屋」を借りた甲斐があったというものだ。部屋の一角に立てかけられた、金属の格子で組まれた骨格標本のような代物。各国の軍・準軍事部隊に長年使用されている戦闘用強化外骨格『エンフォーサー』。

手首のスマートウォッチとOSの同期完了。手元の操作で、金属の格子はまるで布切れに変じたように硬さを失い、ぐにゃぐにゃと足元にわだかまった。革ベルトのようになったそれを固定具で服の上から装着していく。金属やモーターで構成されたハードタイプとは違う、ソフトタイプの強化外骨格。

上着を着ると、服の上からでは本当に見分けがつかなくなった。それに満足すると、今度は組み上がった幾つかの「道具」を物入れやベルトに収めていく。最後にそれらの上からさらに薄手のハーフコートを着込む。身体を動かし、激しい運動の邪魔にならないことを確認する。

それが終わると照明を落とし、もう二度と戻らない仮の住居を後にした。

黒の日輪【2】冥府にて

埃にぶ厚く覆われて停止したエスカレーターを、パンプスの規則正しい靴音がゆっくりと登っていく。周囲を照らす光は割れた天井から差し込む光と、足元を照らす懐中電灯のみ。

かつて大勢の利用客で賑わっていたはずの華やかなショッピングモールは暗闇に閉ざされ、まるで洞窟のようにひたすら暗く、空虚で広大な空間と化していた。懐中電灯の光に照らされた人影は、まるで夜行性の昆虫か動物のように、怯えを隠そうともせず物陰に消える。

大穴を開けられて内部の商品をぶちまけられている有名ブランドショップのシャッター。床に叩きつけられ、電子部品を残らず持ち去られたスマートフォンの残骸。天井近くまで積み上げられ、樹脂で固められて通路を塞いでいるフードショップの机と椅子。懐中電灯の光に導かれて、華奢なパンプスの規則正しい靴音がゆっくりと進む。

靴音が立ち止まった。懐中電灯を手に案内していた男がホールの一角を示す。案内されていた女は余裕に満ちた態度で頷きを返した。

昼なお暗い広大で空虚な空間の一角。断熱用マットを床に敷き詰めてアウトドア用のランタンを傍らに置き、うずくまるように本を読んでいた男が近づいてくる靴音に胡散臭そうな顔を上げる。表紙が見えた。『終わりなき平和』だった。

「誰だ、あんた?」もつれた髪と顔形も定かではない髭の中から発せられた声は、警戒というより面倒くさそうな調子だった。「まさか女刑事ってことはないよな。動きがとろすぎるし、別嬪すぎる」

「性差別と職業差別を同時に行うのは楽しそうですね。私には理解できない楽しさですが」

「あんた、フェミニストかよ?」男は鼻で笑った。

「元は」

「元?」

「私にとってのミニマムを追及していったら、そう呼ばれるようになっていただけです。今は、わかりません」

「ここにはたまにあんたみたいのが来るよ……ソーシャルカウンセラーだとかNPOだとか、とにかく何様かというくらいふんぞり返った馬鹿女がな。何か良いことをしたいと思ってるわりには、俺たちを見るなり毛穴を広げて跳んで逃げやがる。あんな不愉快な奴ら、触るのも真っ平だってのにな」

笑おうとして、男は咳き込んだ。

「あんたらには5メートルも進めば何かの餌食になりそうな界隈に思えるんだろうが、堅気の女でも転がそうもんなら根絶やしにされるのは目に見えてるし、わざわざ怪しい場所で怪しい取引なんかする必要もない。ここに巣食う奴らはもうちっと用心深いのさ、あんたらが期待するよりは」

女は柔らかな声で言った。「……人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である」

男は一瞬あっけに取られたが、やがて低い声で続けた。「ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい」

「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう……そこまでわかっていて、あなたはここにいるのですか?」

男は本を傍らに投げ出し、肩をすくめた。「ここのことを言っているのなら見当違いもいいところだ。ここはまだまだ人の国だよ。哀しいくらいにな」

エリジウムというにはずいぶん寂しい場所ですね」

「しょっちゅう盗まれるのが一番困るんだが、それもまあ、盗まれて困るものを置かなければいいだけの話だ。銃を持っているとか抜かすタフガイ気取りもいるが、ここじゃ質のいい弾薬の方が貴重なんだよ、作るのに本物の化学が必要だからな」

「……で、そろそろ本題に入ってくれないか。知的な会話が楽しみたいなら、オックスフォードかMITあたりの糞インテリをくわえこめよ」男はどんな寛大な女でも不愉快になるような無遠慮な目つきになった。「それともしゃぶりたくて来たのか?」

女は取り合わず言った。「……人を」

女は一枚の写真を取り出した。「人を探してほしいのです」

男は一瞥して、失笑した。「まさかこの痩せっぽちが、あんたの若いツバメってこたねえよな」

「知人の息子さん、とだけ言っておきます」

「それこそ探偵に頼めよ。こんな吹き溜まりに巣食う虫みたいな男じゃなくてな」

「探すだけではありません。探して、注ぎ込んでほしいのです。知識、技術、経験。あなたの持てるすべてを」

「断る」男は一言だけ言った。断ち切るような冷たい口調だった。「その『知識、経験、技術』がどんな代物か、知って言ってるのか?それをこのガキに教え込む行為の、どこに正しさがあるか言ってみろ。言えるもんならな」

「ここも人の国の範疇、と言いましたね。ではどこにいても同じでは?」

沈黙。暗闇のどこかから気のふれたような笑い声とすすり泣きが途切れ途切れに聞こえ、それになぜかアメリカ独立宣言の一節を、日本語で暗唱する声が混じる。――我らは団結して立ち上がり、分断されれば倒れるだろう。

長い間、男は黙っていた。女はスカートの裾を直しながら上品な仕草で傍らのマットに腰を下ろしたが、それにも気づかない様子だった。「……それでも、美しい言葉に従って人を殺すよりは、ましなんだよ」

「ここは静かなところですね。あなたがここにいたがる理由も、少しわかります」女は半ば目を閉じ、夢見るように言った。「私のためにもう一度美しい言葉を信じてほしい、とはいいません。それはあなたにとって侮辱でしかないから。美しい言葉に裏切られたあなたに」

暗闇の中、女の色素の薄い灰色に近い瞳が、はっきりと男を見ていた。「だからこう言いましょう。私はあなたを屈服させたものに、必ず勝ちます。私には、あなたが必要です。——望月崇」

「……そいつを探すことが、俺のためになるってのか」男は低い声で言った。

「彼も、あなたも、二人とも私に必要な人間です」

女は微笑み、白い手を差し伸べた。男はそれを壊れ物を扱うように取り、ひび割れた唇でそっと触れた。

何一つ持たず、誰の見送りもなく、男は女と共に、既にその役割を終えていた廃墟を後にした。緩やかな丘陵を夕焼けが照らしていた。風が吹き、女の栗色の髪を乱した。手でそれを押さえ、女は微笑みかけた。「たまには、外の空気も良いものでしょう?」男はゆっくりと頷いた。「ああ、悪くはないな」

 

「痛……っつう……」慣れない髭剃りで皮膚を切ってしまい、男は顔をしかめた。髭が伸びすぎていてシェーバーが使えなかったのだ。「たまに剃ると、剃刀負けがたまらんな……」

髪まで短く刈り込んだ自分の顔を鏡で見て、「胃の悪い木っ端役人みてえな面だな」と唇を歪める。バスローブを適当にひっかけ、浴室を出た。簡素だが趣味は悪くないビジネスホテルの一室。机の上には真新しいプリペイド式携帯、そして一枚の写真。

ソファに深々と腰かけ、写真を目の前にかざす。痩せた、顔色の悪い、服を着ているというより着られているような青白い少年が、それだけは印象的な、刺すような三白眼で男を見返していた。

「……なんだお前、俺と同類かよ」男は薄く笑い、写真を軽く弾いた。「間違えて人の世に生まれ落ちたってな顔してるぜ、けだもの坊っちゃん……」

黒の日輪【1】行きずりの暴力

趙安国は今日の取引に満足していた。製造番号を削り落した業務用大型3Dプリンタと引き替えに入手した大量の軍用爆薬。何よりも素晴らしいのは、それで吹き飛ばされるのが同胞でない限り――いや、同胞であろうと趙の懐が一切痛むことはない、ということだ。やはり商売はこうでなくては。

それにしてもあいつら、ぺこぺこ頭を下げているわりにはもらえるものをきっちりもらっていきやがる――彼はそう考えて唇を歪めた。その癖、接待の席には俺の嫌いな四川料理を出してきやがる。馬鹿ではないんだろうがいまいち可愛げのない連中だ。この国は「もてなしの国」じゃなかったのか?

まあいい。奴らもこっちも堅気ではない以上、馬鹿と取引するよりはましな相手とわかったのは収穫だった。後は港湾局と税関関係者への「鼻薬」の量を間違えなければ万事抜かりなしだ。まったく面倒臭い話だが、この手の作業を怠ると奴ら、死肉に群がる魚のように食らいついてくる。

本当のカオスと化した祖国を捨て、この国に地盤を築く。それまでは慎重の上にも慎重を重ねる必要がある――趙はもう何度目になるかもわからない決意を確かめた。それに生き馬の目を抜く同胞に比べれば、この国の官憲は遥かに御しやすかった。奴らだって、俺たちが本物の狂犬になるのは嫌なんだ。

趙は旧友の金融業者が先週、グレネードランチャーで車ごと吹き飛ばされたことを思い出した。いい奴だったが、あいつは目立ちすぎた。どんな屈強な護衛を雇おうと、重火器や爆発物には勝てない。この国では臆病者ほど長生きするのだ。いや、それは俺の故郷でも同じだったか。

だから趙の乗車は外装よりも内装の方に金を掛けていたし、ボディからタイヤに至るまで全て防爆防弾仕様だ。趙の両脇で面白味のない仏頂面をしている2人の護衛は、人民解放軍から引き抜いた精鋭。戦車に乗ったところで100パーセント安心できない国では、このくらいの用心はしなければ。

まだまだこれからだ、次の取引に備えて休むためシートに身を埋めながら趙は思う。若い愛人を正式な妻にもでき、娘も生まれた。大きくなったら、外国人富裕層御用達のインターナショナル・スクールにも通わせてやりたい。俺のような苦労を味わわせないためにも。そのためにはもっと、もっと稼がなければ。

――打ち捨てられた無人の建築現場、車道を見下ろす最上階近くの足場から、一対の目がゆっくりと近づいてくる趙の車を捉えていた。

双眼鏡代わりに顔へ当てていたスマートグラスを懐にしまう。身に付けた幾つかの道具が所定の位置にあるかどうかを確かめる。それが終わった後でポケットから掌サイズの機器を取り出し、操作。そして、効果が出るのを待った。

次の取引までに少しでも睡眠を取ろうと目を閉じていた趙は、不審なものを感じ取って目を開けた。運転手の様子がおかしい。

「おい、道が違うんじゃないのか?」

「え、ええ、それが、さっきからハンドルの操作が……」

おかしなことが起きている、と趙は直感した。運転手はテロや襲撃に備えて趙自らが選び出した男だ。その腕を見込んで運転だけでなく車両整備全般を任せている。ただの故障ではない――

こいつはまさか――趙は必死にハンドルを操る運転手、その傍らに目をやる。悪い予感は的中した。カーナビゲーション用のディスプレイが不自然に明滅し、明らかに正規OSではない数列を走らせている。

「カーナビを切れ!GPS経由でハッキングされてるぞ!」

趙の警告は正しかったが、結果から言えば遅すぎた。車はとっくに車道を外れ、舗装すらろくにされていない砂利道をまっしぐらに突き進んでいた。運転手の必死の努力で土砂の山への正面衝突は免れたが、ほとんど減速せずに車は積まれた廃材を突き崩しながら止まった。

「社長、大丈夫ですか?」

「何とかな、しかし一体……」

趙の声は途中で凍りついた。趙のまさにその頭上に、どすっ、という重い音。誰かが車の屋根に飛び降りたのだ。

「誰だ!お前、悪戯にしてもほどが……」

怒声を上げようとした運転手が喉の奥でそれを引き攣らせた。フロントガラス一面にびしゃりと液体が浴びせられたのだ。白煙を上げてガラスが乳白色に変色していく。さらに重い鉄の塊が、がつん、とガラスに叩きつけられる音。

今度悲鳴を呑みこむのは趙の番だった。ライフル弾すら無効化する防弾ガラスが、蜘蛛の巣状にびしりとひび割れたのだ。続いて第二撃。フロントガラスが完全に割れ、外界の空気がどっと車内に吹きこんでくる。鈍く輝くボルトカッターの先端が車内に突き込まれ、運転手が堪え切れず悲鳴を上げる。

黒のグローブに包まれた巨大な掌が運転手の顔面を無造作に掴み、悲鳴を上げるのも構わず外に放り投げる。

「社長、動かないでください!」

護衛2人が躊躇わずホルスターから銃を抜き出す。左右それぞれのドアから素早く滑り出、車外の何者かに銃口を向ける。

「動くな!少しでも動いたら……」

――だが相手は動いた。それも護衛たちの予想を遥かに越える動きで。

一部始終を見ていたはずなのに、趙は自分の目が何を見ているのか理解できなかった。巨大な、小山めいて見えるほど巨大な影に向けて放たれた銃弾は、一発として目標を捉えなかった。二発、三発、放たれた銃弾は影を貫くことなく空しく宙に吸い込まれる。立て続けに撃とうとした護衛が、突然悲鳴を上げて拳銃を足元に取り落した。

銃のトリガーにかけていたはずの人差し指「だけ」が、嫌な方向に捻じ曲がっている。もう一人の護衛が必死の形相で銃口を向ける――巨大な影の腕が一閃した。彼の人差し指も枯れ枝のように容易くへし折れた。男二人の尾を引く絶叫。

趙は巨大な影の手にした「武器」にようやく気づいた。あれは――中国武術の「拐」だ。沖縄空手で呼ぶところのトンファー。硬い木の棒に握りをつけただけの単純な鈍器。しかし、そんなもので拳銃相手に、しかも戦闘訓練を受けた男二人を制圧したのか?まさか。

趙は悪夢を見ている気分だった。自慢の防弾防爆車は廃材の山にめり込んで停車し、大金を積んで雇った護衛二人は指をへし折られて泣き叫んでいる。そして目の前には――おかしな棒っきれを持った大男。これが悪夢でなくて何だ?

舐めるな――恐怖を、不条理さへの怒りが押し流した。護衛の忠告を忘れ、趙はドアを蹴破るように開き、護身用の拳銃を巨大な影の背に向けた。

「悪ふざけも大概にしやがれ、でかぶつ!そのまま地面に伏せろ!」

突然、目の前の巨大な背中がかき消えた――ように見えた。正確には、巨大な影が(そう、まさに趙に言われた通り)地に伏せ、趙の目がそれを追えなかっただけだ。そして一瞬後には、大きな掌が視界を覆い尽くしていた。

反則だ!――趙はまたしても悲鳴を上げそうになった。こんなでかぶつが、足音一つ立てず瞬く間に近づくなんて!――視界が一回転し、背中から受身も取れず砂利道に叩きつけられる。身を起こそうとした途端、趙の太股ほどもある腕が首に絡みついてきた。一瞬で呼吸が止まる。

気絶する寸前で解放された。咳き込み、口の中の砂利を吐き出そうとした途端、また顔面を掴まれ、玩具のように振り回される。胸から叩きつけられ、背中に膝が当てられる。全身の骨が砕けたような気分だった。身動きできない。

「畜生……何なんだお前?」

凄味を効かせたつもりが、喉から漏れたのは絶息寸前のあえぎ声だった。「サツじゃないなお前?日本人の一味か?さっきの取引が気に食わなかったのか?それとも同業者か?俺の商売が、お前の何を邪魔したってんだ?」

「どれも違う。聞きたいことがある」

意外に静かな声だった。静かで、そして若い声。

「お前は密売人だろう。核物質を売ったことは?」

「核物質……だと?」

「大量の濃縮ウラン。少なくとも小型戦術核が製造可能なだけの」

「お前……素人か?〈業界〉を知らない素人の分際で、俺を襲ったってのか?」

嘲笑おうとしたが、絞殺される寸前の犬のような情けないあえぎが漏れただけだった。「かつがれたな!核なんて売り物になるかよ!銃器やクスリ程度ならサツだってまだ目こぼししてくれるが、核なんて売ったら奴ら、全力で潰しに来るだろうが!幾ら金を積まれたって、売れねえものってのがこの世にあるんだ!」

「この地にはあらゆるものが集まってくる。金、人、物、情報、ありとあらゆるモノが。よき商売は、そこにある。だからお前も、ここに来たんだろう」

激昂も、暴力への狂熱も、趙を痛めつける愉悦すらない、穏やかな声が全身を粟立たせた。

「……よく聞け。17年前、沖縄、偽装核、『ネクタール』、HW」

呪文のように、声は静かに唱える。

「何だと……?」

「一つでもいい。今の言葉の中に思い当たるものがあったら言え。17年前、沖縄、偽装核、『ネクタール』、HW。これを最後の質問にしてやる」

「知るか、イカレ野郎!そんなに知りたきゃ、俺を殺して他の奴らから聞け!」

趙は声を限りに叫んだ。顔中が汗とも涙とも鼻水ともつかない液体でどろどろになるのを恥とも思わなかった。「お前の喜ぶようなことなんて、一つだって喋ってやるもんか!殺すなら殺せ!」

「とぼけるな。お前も〈業者〉なら東南アジア経由の武器密売ルートを知らないはずがないだろう。その中にいるはずだ、核物質を扱える奴が」

「言ったろう、俺はそんなもの売らないって!扱っている奴がいたって、そんなの知りたくもねえ!」

「……本当に、知らないのか」

背後の声に、初めて微かな困惑と失望が混じった。背にのしかかる重みが、ほんの少しだけ緩んだ。――今だ!

趙は全身の力を振り絞って跳ね起き、つんのめるようにして走った。再び地面に振り回されて叩きつけられることも、背後からあのトンファーで頭を一撃されることも、考えなかった。落ちていた拳銃を拾い上げ、獣のような唸り声を上げて振り向く。

銃口の先に、巨大な影はなかった。半壊した車と気絶した運転手、それに激痛に呻く護衛たちがいるだけだった。安堵と、それを上回る敗北感に、趙はへたへたと崩れ落ちた。

 

「武器の密売人ばかりを襲っている奴がいるらしい」

「何だそいつ。自殺にしてももうちっとは楽な方法があるだろ?」

「その手の狂犬の話も最近じゃ珍しいよね......それなりに統合と再分配はなされてるし、事業拡大が忙しくて全面抗争の余裕はないし」

「もっと訳がわからんことにはな、こいつは金にもブツにも興味がないらしい。襲って、叩きのめして、半殺しにしたところで、ただ質問するだけなんだとよ」

「質問?」

「……17年前、沖縄、偽装核、『ネクタール』、HW」

「あん?」

「襲われた奴らの言い分だが、そんな質問をするらしい。その中に聞き覚えのある言葉はあるか、だとよ」

「それしか聞かないのか?」

「それしか聞かないらしい」

「へえ……で、その話の笑う所、どのへん?」

「......なあ、その話、もう少し詳しく聞かせてくれないか?」

一人の男が微笑みながら言う。短く刈った頭髪、地味だが着心地の良さそうな麻のジャケット、綺麗に磨かれた靴。「『管理された混沌』の中じゃ、そういう本物のイカレ野郎の話を聞くのは稀でね」

 

――昏い輝きに満ちた物語が、今、静かに幕を開ける。

幕間・死よ、分け隔てなく在れ

指先から、息絶える直前の痙攣が伝わってきた。

 

痙攣が完全に止まるまで待ち、慎重に指を動かした。肉の中に深々と埋まっていたとはまるで感じさせない容易さで「針」が耳孔から引き抜かれる。先端に小粒の宝石を思わせる血の滴が一滴膨れ上がっていたが、慎重に柔らかな布でぬぐうと跡形もなく、消えた。

自分で設計し、自分で作り上げた道具だった。ナノファイバーをベースに構成され、金属とガラスの両方の性質を合わせ持つその「針」は、蜘蛛の糸とほぼ変わらない細さとしなやかさを保ちながらも鉄塊を吊り下げられるほどに強く、決して折れず、曲がらず、切れない。細すぎて、直接肌に刺しても痛みすら感じさせないほどだ。人を殺すにはまったく向かない道具だった――他の誰かが使う限りは。

自分が使えば、検死解剖しても心不全としか判断されない。

「目標」の顔に手を添え、仰向かせる。死につつある人間の物とは思えない、血色の良い顔には苦痛も恐怖も浮かんでいなかった。あるのは純粋な驚きのみ――自分が致命傷を受け、たった今死ぬことが信じられないとでも言うような。そして肌から温もりが失せ、目から光が消え、無表情という表情すら失って、肉塊に還る。すべての死者と同様に。

見慣れたものだ。

いかに豪奢な衣服を纏い、いかに四海の美食を貪り、いかに屈強な護衛たちに守られようと、すべての死者は等しい。死は万人に降り注ぐ、光や重力よりも厳然として在る法則であり、またそうでなくてはならない。

祈りは必要ない。死者たちに与える言葉があるとしたら、一つだけだ。――苦痛なき、眠るがごとき死を。

 

【終わったか】

甲高い、かすれた声が響いた。直接の音声ではない。内耳に直接埋め込まれ、体内の塩分を動力に動く骨振動タイプの無線通信機。民間には公開されていない最新装備だ。先進諸国の軍特殊部隊にしか使われていないはずの装備だが、技術自体はブラックマーケットに流出し売買され始めている。いつの世も、最先端技術には科学者と職業犯罪者が真っ先にアクセスを試みる。

「処理はよろしく」返事も声に出す必要はなかった。声は骨の振動を通して伝わり、呟きも電子的に補正される。「あなたも心配性だね。失敗したなら、今ごろ僕は返事などしない」

予想通り、鼻を鳴らすような吐息が返ってきた。【ただの確認作業だ】

「あなたぐらいのものだよ、僕の進捗状況を気にするのは」

【〈親方〉はお前に甘い】返ってきたのは苛立ちというより、シーツの感触が気に入らないかのような鈍い感情の漣だった。【くだらない皮肉を言う前に戻れ。次の『処理』が控えている】

「矢継ぎ早ですね」

【不服か】

「いえ。死を撒く業に終わりはありませんよ」

【お前が良くてもこちらが困るのだ。歳若いお前が思う以上に、殺しの業は精神に負担をかける。無理にでも休息を取ってもらう必要がある。それだけ重大な仕事と認識しておけ】

「重大でない殺しの業などあってはならない、というのがあなたがたの信条だと理解していたつもりですが」

【皮肉を言うなと言っただろう】声がわずかに尖った。【装備や人員にかかる資金は全部依頼主が負担する、確実に遂行さえしてくれれば幾ら使っても構わんとのことだ。準備でき次第発て。場所は、日本だ】

日本。東洋の島国。いくつかの候補を思い浮かべていたが、その地名は予想外だった。「政府高官ですか。実業家、それとも軍関係者?」

【いずれでもない――〈黙示録の竜〉と〈バビロンの大淫婦〉だ】

その呼称は何も感じないと思っていた心の奥底にいくばくかの動揺をもたらした。死を撒く機械となって以来、自分にそのような感慨があったこと自体が驚きだった。

「なるほど……あなたにとっても因縁の相手、ということですか」

死体に背を向け、歩き出した。意識せずとも音一つ生じさせない歩法を会得してから久しい。【お前にとっても、だろう。その名は】

「確かに――でも相手が誰だろうと、僕のやってきたこと、やっていること、やろうとしていることが変わるわけでもない」

天窓から降り注ぐ月光を仰ぐ。少し歪んで見える青みがかった月が、音もなく夜の底を照らしている。

「老若を問わず、男女を問わず、貧富を問わず、貴賤を問わず。死は平等に、万人に降り注ぐものでなければならない」

【神でも物理法則でもなく――只人が人に与える死は、最大限の技量と余人には真似のできぬ砕身によって、その恐怖と苦痛を最小限に抑えなければならない。それは〈ヒュプノス〉の名を持つ者の、責務だ】

かの国からでも、あの月は見えるのだろうか。

「誰であろうと与えなければならない――苦痛なき、眠るがごとき死を」