High Tech & Low Life

アイダカズキの(主に小説用)ブログです

黒の日輪【9】Into The Darkness

――あなたが相良龍一君ですね。私は高塔百合子です。お母様からあなたのことを頼まれました。

それが彼女の第一声だったが、幼い龍一は不遜にも「この人、嘘が下手だな」という感想を抱いた。本当に彼女が母の知人なら、龍一の父の話に出てこないはずがなかったからだ。おそらくは人の良すぎる父を丸めこむなど造作もなかったのだろう。第一「子育てより仕事の方が楽しい」などと抜かす女が龍一のことを気にかけるだろうか?

もっとも、彼女の話の真偽など龍一にはどうでもいいことではあった。彼はすでに恋に落ちていたからだった。

まだ子供である龍一の目から見ても、お伽話の中から抜け出てきたような少女だった。写真や動画の中でしか見たことのない異境や異国の人々の話、祝祭や奇妙な風習を彼女はせがまれるままに話した。一緒に歩きながら「綺麗に見える歩き方」を教え、とても静かに歩くと龍一を褒めた。

テーブルマナーを龍一に教えたのも彼女だった。スプーンやフォークが思うように使えず癇癪を起こしかける龍一を前に、彼女は手本を示して見せ、テーブルの上の料理が完全に冷え切っても、龍一が同じようにできるまで決して席を立たなかった。

あの時の少女が時を重ね、より美しくなって龍一の前に立っている――だが奇妙なことに、その美しさは彼の胸に何の感慨も呼び起こさなかった。あてもなく歩き続けた挙句、月の裏側に迷い込んだような違和感のみがあった。

崇はしばらくの間二人をかわるがわる興味深そうに見つめていたが、さすがにしびれを切らしたらしい。「BGMに『トリスタンとイゾルテ』でも流しましょうか?〈愛の死〉なんてぴったりだと思いますがね」

 

 それで、と彼は口を開いた。「俺をどうするつもりです」

「どう、とは?」

「警察にでも突き出しますか」

夜は明けかけていたが、その場にいる誰も眠気を訴えなかった。品の良い色彩の調度品に囲まれた応接室。3人の前には湯気の立つコーヒーカップが置かれているが、手をつける者はいない。

龍一の刺すような視線を受けても、百合子の整った容貌には毛一筋ほどの揺らぎもない。崇は馬鹿げた冗談を聞いたように吹き出す。

「サツに突き出すためだけにこんな手間暇かけるもんか、どうせろくに感謝もされねえのによ。第一、お前をここに連れてくるだけでも俺たちは充分危ない橋を渡ってるんだ――何しろ、おまわりさんよりおっかない連中がお前を探しているんだからな」

「初めに話しておきたいのは」百合子が静かに口を開く。「これからあなたに話すことに、私たちは一切の権限を持たないということです。あなたが気に入らなければ、断ることも、ここから出ていくことも、あなたの自由です」

「そ、人はみんな自由なんだ。俺にもお前にも自由はある。檻の中で好きなところに座れる自由がな」望月さん、と諌めるように彼の名を呼んでから、百合子は龍一に改めて向き直る。色素の薄い、灰色に近い瞳が真正面から見つめてくる。「相良龍一さん。私たちの元で働く気はありませんか?」

「働く。どんな」

「一言で言えば請負仕事だな。高塔家の当主であらせられるこちらの御令嬢から依頼を受け、結果に応じた報酬を受け取る。必要経費も出る――ただし、失敗した場合、当然報酬はなしだ」

「大っぴらにはできない仕事なんだろうな」

「求人サイトに乗ってないことは確かだ」

「うさんくさい仕事ですね」

「仕事には違いないだろ。使うものがレジスターかカラシニコフかの違いってだけだ」

崇の軽口には付き合わず、龍一は百合子の目を見返す。あの違和感がさらに強まる――月の裏側にさ迷い出たような違和感。「よくわかりませんね。それがどうして俺なんです?」

「わからないってことはないだろ。別に嬉しくないだろうが、俺をあれだけ手こずらせたのはお前以外にいない」

「俺が動くより速く撃てる奴はごまんといる、そう言ったのはあんただぜ」

もっともな質問です、と百合子は軽く頷く。「私が求めるのは能力より、むしろ動機なのです。相良龍一さん、波多野仁の死の原因を知りたくはありませんか?」

動揺を抑えた声が出せるようになるまで、数瞬の間が空いた。

「……どうしてその名前を」

誰も知らないと思っていた――この世の誰からも忘れ去られていたと思っていた、その名を。

「あなたは彼がなぜ死んだかを知るために戦い続けてきたのでしょう。ただ一人で」

「一人でできることの限界はさっき思い知ったばかりだろう。お前が真相に――まあそんなものがあるとしての話だが――たどり着くまでに、いったい幾つ死体を転がすつもりだ」さりげないが、冷たい口調だった。

「そもそもそれを突き止めて、お前はどうするつもりなんだ」

「それは」言いかけて、彼は口ごもった。その問いへの答えが自分の中に何もないことに気づいたからだった。

「まあたとえば――その何とかさんとやらを殺したのがモサドみたいな国家機関だとして、お前はどうしたら満足するんだ?関わった人間を一人残らず殺しでもすれば、お前は満足するのか。手を下した奴、支援した連中、命令した上司、その一族郎党。どこまで殺れば気が済む?それができると思うんなら、お前には医者が必要だ。おつむ専門のな」

返す言葉がない様子の龍一を見て、崇は心底気の毒そうな顔をした。「自分が何をしたいのかもわからないか……じゃ、わかるまで俺たちを手伝うんだな」

「あなたの望みがそれであれば、私の力が及ぶ限りですが、調査を行います。――それで、あなたが満足するのであれば」

百合子の色素の薄い灰色を帯びた瞳が、改めて龍一の顔を見た。見覚えのある瞳だった――かつて一目で龍一を虜にした、あの少女の瞳だった。

「過去を忘れることはできないかも知れません。でも、振り払うことはできるはずです。離れて生きることはできるはずです。……私は、そう信じています」自分に言い聞かせるような百合子の声だった。

龍一は百合子を見た。次に興味しんしんといった顔の崇を見た。そしてもう一度、揺るぎない視線の、しかしどこか祈るようにも見える百合子に目を戻した。その時にはもう、答えは決まっていた。

「わかった。……それで、何から始めればいい?」龍一の答えに、崇は微かだが頬を緩めた。彼なりに緊張していたのかも知れない。

「そうだな、まずは……」そこで彼は百合子と目を交わした。心なしか、百合子の表情も少し和んで見えた。

「まずは、お前を磨いてやることからかな」

「……は?」

 

美容師の朗らかな「ありがとうございましたー!」の声に送られて龍一は店を出た。表に停まっていた崇の車に乗り込む。

「頭がすかすかする。落ち着かない」

「いいじゃないか。あのもっさい髪形に比べりゃ充分男前に見えるぜ」

「美容院なんて生まれて初めて行ったよ……顔を剃ってくれないのか」

「勉強になったろ。さて、次は服と靴だな」

「おい、本当に買うつもりなのか?」

「いいじゃないか。経費に勘定していいってご当主の仰せなんだからよ」

「経費って……」

「仕事着と作業靴だと思えよ。それともお前、ソマリアだのナゴルノ・カラバフだのに送られるとでも思ったか」

なんだか調子が狂うな、と龍一は溜め息を漏らし、前髪をいじった。

「あんたといい百合子さんといい、何を考えてるんだか……」

「気分はましになったろ?」車が走り出す。微かに開いたウィンドウから微風が差し込んでくる。短くなった頭髪が風になぶられる感触を覚えながら、龍一は「まあな」と呟いた。

「あんたもその気になれば、まともなことも言えるじゃないか」

「……何だと?」

「まあ、別に不思議じゃないか。俺だって冗談が言えるくらいだからな」

「お前……案外根に持つタチだな」

 

(次回、エピローグ)

黒の日輪【8】月光

男はハンドルを握りながら、後部座席でタオルを目に当てて横たわっている少年の様子をバックミラーでうかがった。傷ついた獣のように時々身じろぎするだけでほとんど動かない。結構、そのままでいてくれよ、と内心呟く。暴れ出さないだけでも上出来だ。

「……空気の匂いが変わったな。市外へ出たのか?」

「いい鼻してやがんな。本当にけだもの並みだ」正直なところ、舌を巻いた。「なあ、俺がこのまま警察署に向かったらどうするつもりだったんだ?」

「どうもしない。あんたごときにしてやられるようなら、俺の運もそれまでだ」

覚悟完了済みってか」

ハンドルを繰りながら、話し始めた。どのみち隠すようなことでもない。「お前の中学の担任に会った。心配していたぞ。ならず者人生に精を出すつもりだったんだろうが、残念だったな」

「あの倉庫を突きとめたのもそれか」

「それはもうちょい手が込んでいる。お前の接触した〈業者〉、夜逃げした倉庫のオーナー、襲撃された売人どもの拠点。その共通項目から絞り込んだ」

「道理でうなじのあたりに熱い視線を感じると思った。言ってくれれば触らせてやったのに」

「お前、冗談が言えるのかよ?」意外だった——呆気に取られ、思わず噴き出した。

「会わせたい人がいるって言ったな」溜め息。「仕方ないな。あんたには借りができたし、そいつに会わないことには話が進みそうにない」

「わかってるじゃないか」

車は倉庫街を抜け、郊外を走っていた——遠くに街の光、遥か上空にはやや歪んだ満月。

「それに、お前に熱い視線を送っているのはどうやら他にもいるらしいな」

「他?」

「あの倉庫を張ってた連中だよ。お前と殴り合ったあの全身タイツ以外にも、堅気には見えない奴らが後方で控えていた」

「マフィアの手先にしちゃ、ずいぶん毛色の違う連中だと思ったが」

「隙を見てそいつらの顔を照合してみた。皮肉なもんだな、お前より簡単に身元が割れたよ。ハ=モサッド・レ=モディイン・ウ=レ=タフキディム・メユハディム」

「……モサドイスラエルの情報機関か?」

「腰を抜かすところだったよ。何やらかしたら、そんな奴らのターゲットになるんだ」

「知らん。俺は鉤十字の旗を振ったことはないし、爺さんの名前はアイヒマンじゃない」

男は喉の奥で笑った。「心当たりはありません、か?あのなあ、自業自得でない悲劇なんてこの世にあるもんかよ。自分に関わりの一切ない不幸が次から次へと襲ってきたら、そりゃ悲劇どころか、抱腹絶倒のどたばた喜劇だ」

「だが、少なくともお前の行動がこの世の誰かさんの気に障ったのは確かじゃないか……洒落や酔狂で動くほど、モサドは暇じゃねえだろう」答えはない。「お前の経歴はだいぶわかってきた。何も知らなかった時よりだいぶな。だがお前のことは、結局ほとんどわからないままだ。何をするつもりだ?」

沈黙。

「……武器の密売人を片っ端から襲い、泣く子も黙るハ=モサッドを敵に回して、お前の行きつく先はどこなんだ?」

「……行きたい場所があるわけでもない。欲しいものがあるわけでもない。ただ、他にやることを思いつかないんだ」

「復讐か。やめとけ」男は吐き捨てた。「自殺にしたってもうちったあましな方法があるだろうが。連中が持ってるのは本物の銃弾が飛び出す本物のおもちゃなんだぞ。銃で撃たれた傷、見たことあるか?ひどいもんだぞ」

「……あの人が言っていた。銃には致命的な弱点があるって」

「弱点?弾切れや故障のことか?」

「違う。引き金を引かない限り、絶対に相手を殺せないことだ」バックミラーの中でタオルがずれ、涙と目脂を拭い去った目がわずかに覗いていた。異様に澄んだ透明な瞳。けだものの目だ、と思った。「その前に動けば殺せる、生かすも殺すも思いのままにできる、って」

「……滅茶苦茶言いやがる。お前はともかく、この世の大抵の人間は植芝盛平じゃないんだぞ」

「理屈は合ってるだろう?」

確かに合っているが、そりゃ狂人の理屈だ、と言いそうになった。「それで死んだら?」

「死んだことがないからわからない」

思わずハンドルを平手で叩いた。「わかった。お前はもう、今後銃弾を避けるな。撃った弾を避けるより撃たせない方法を考えろ。お前をぶっ殺しに誰かがやってきたら、お茶でも飲んでお帰り願え」何かを言おうと口を開きかけたところで間髪入れず続けた。「自惚れるな。お前が動くより速く撃つ奴なんてこの世にはごまんといる」

痛いところを突かれたのか、彼は黙り込んだ。しばらく沈黙が続いた。ご機嫌を損ねたかな、と思い始めた時、ぽつりと口を開いた。「あの人が俺に残したのは、それだけなんだ」「あんまりいい趣味には思えねえけどな。どんな強い奴だって撃たれりゃ死ぬし、銃弾の避け方なんてまともな発想の産物じゃねえ」

「わかってる。俺もあの人も、世間一般で言う真っ当な人間じゃない」沈黙があった。言葉を思いつかなくて途方に暮れているような沈黙だった。「それでも……俺が何もしなかったら、あの人が本当に死ぬような気がして……」

ふっと言葉が途切れた。糸が切れたように、彼は眠り込んでいた。顔からタオルが滑り落ち、わずかに傾げた彼の目に光る粒が浮いているのを見て、男は溜め息を吐いた。「……子供が」

不意に、自分の中に生じた感情に戸惑った。腹の底から込み上げるもの、どす黒い粘つくような怒り――彼の魂の一部を永遠にもぎ取ったまま、この世から去った男への、やり場のない怒りと嫉妬だった。

 

 やがて男は一軒の家の前で車を止めた。目もくらむ豪邸ではないが、立派な鉄の門扉と広い庭を備えたレンガ造りの屋敷。カメラで確認したのか、意外に滑らかに鉄の門が開いていく。

「……着いたぞ。降りろ」男が後部座席のドアを開けると、ふらつきながらも大人しく降りてきた。気が変わる心配はなさそうだ。彼は首を巡らし、周囲を物珍しそうに眺め回した。

ぶるっと彼は巨体を震わせた。「寒いな。ここは……ずいぶん高地まで登ってきたみたいだが?」

「避暑地だよ。アジアやアフリカの旦那様向けのな」

「……なるほど、連れてこられた理由がだいぶわかったよ」

「住んでるのは一山当てたトレーダーやIT長者、それにお忍びで来てる各国高級官僚—―ちょっとした治外法権地帯だ。どこの国の情報機関だろうと、ここで揉め事を起こしたらただじゃ済まない。身を隠すにはもってこいの場所だ。まあ、当面はな」

「なるほど」

「道を外れるなよ。ここの住民はミリセクと契約してるからな。連中はまずお前を撃ってから身元の確認をするだろうよ」

「俺の知る日本とはずいぶん違う法律で動いている界隈みたいだな」

「ヘイト団体がどんだけ金切り声を上げようと、国内企業の海外移転外資系資本の流入も、性的マイノリティの権利拡大も止められやしねえ。誰かの言った通りだよ、現実は常に正しい、ってな……」饒舌な自分に気づき、首を振る。

しばらく黙って二人は歩く。すでに深夜を過ぎていたが、月明かりのおかげで足元は明るい。

「お前が寝ている間に電話した。起きて待っているとよ」

「この時間にか。あんたは休まなくていいのか?ずっと運転していたのに」

「おい、俺よりもっと他のことに気を使えよ。ま、茶の一杯は出してくれるだろうさ」

小奇麗に整えられた中庭を通り抜け、二人はドアを開けた。照明は輝度を落とされ、精緻な細工のステンドグラスを通して月光のみが玄関ホールを照らしている。

「どうした?」

彼の視線が、正面に飾られた絵画で止まっている。白い衣装を着た女が、獣ともごろつきともつかない生き物の毛髪を捉えてねじふせている絵。

「あの絵……見覚えがある」

「何だと?」

「俺は……あの絵を見たことがあるんだ。まだずっと……小さい頃に」

 

「思い出しましたか?あなたがまだずっと小さい時、私がもっと若かった時、ここに来た時のことを」

吹き抜けになった屋敷の2階、ほっそりとした女の影が立っていた。女の足が階段をゆっくりと降り始める。一段、また一段。喪服にも似た黒一色のドレス、斜めに裁断されたスカートから覗く白い足が、優雅に、それでいて見せつけるように、ゆっくりと降りてくる。

ちょっとばかり演出が過ぎませんかね、お姫様――見とれつつも崇はそう思ったが、隣に立つ少年は揶揄するどころの様子ではなかった。彼の目は、階段を下りてくる一人の女のみを見つめていた。階段を降り切った女の、色素の薄い灰色の瞳が彼を正面から見つめる。

「よく来てくれました。相良龍一」

百合子さん、と彼は呟いたようだったが、それは傍らの男にすら聞こえないような声だった。あるいは本当に、何も言わなかったのかも知れない。

黒の日輪【7】死の鎌

天井の亀裂から漏れる月明かりに、うっすらと侵入者のシルエットが浮かび上がっている。かなりの細身。身体に密着したウェットスーツのようなものを着ているらしい。頭部をフルフェイスのヘルメットで覆っており、顔はバイザーで見えない。等身大の昆虫か、宇宙服を着たエイリアンのようなSFじみた外観だ。

手にした拳銃は消音器と一体化しているのか、銃身が長く、先端が太い。彼が見たどの種類の銃にも似ていない。特殊作戦に特化した武器なのだろうか――つまりは、暗殺などの。いずれにせよ、今まで相手にしてきたごろつきとはまるで雰囲気の異なる相手だ。

何より全身から放たれる、昏く身の毛のよだつような静けさは、その手に握られた銃器よりよほど剣呑だった。海老で鯛が釣れたってところか――彼はほくそ笑む。

しかしどうする?武器は手元になく、保管してある『エンフォーサー』を取りに行くには距離がありすぎる。何よりそれを許してくれる甘い相手とも思えない。侵入に備えて、罠は各所に仕掛けてあるが――さて、どこまで通じるか。

悔やんでも仕方がない。出たとこ勝負しかないな――彼は決意を固める。

手頃なコンクリの破片を手に取り、投げる。侵入者の肩が動き、発砲。その瞬間に正反対の方向に逃げる。だが侵入者は、恐ろしいほどの速さで銃口をこちらに構え直す。意図を読まれたか、あるいはよほど優秀なセンサーでもヘルメットに内蔵されているのか。

思い切って身を投げ出す。鋭い音を立てて飛翔体が右肩をかすめる。肝を冷やしながら、格好を気にする余裕もなく床を這いずる。蜘蛛の糸にすがる罪人の心境で、壁際に垂れさがる紐を引き、「罠」を発動させる。

天井近くに吊られていた台が傾き、その上にこぼれんばかりに載せられていた廃材が一斉に侵入者の頭上にふりかかった。大小の金属塊がどっと降り注ぐ。さすがに驚いたのか、侵入者が数歩後退する。その隙を見逃さず、身を起こして疾走。棚の隙間に隠してあった「武器」を手にした。

「武器」と言っても特別なものではない。1mほどの継ぎ目のない鉄パイプの両端を塞いだだけの代物。だが近距離戦では立派な得物となる――彼の手に握られれば特に。気合、一閃。渾身の力で突き出された鉄棒は、侵入者の手から銃器を弾き飛ばした。

銃器が床面を滑る音。だが武器を奪っても舌舐めずりする趣味はない。鋭く鉄棒を振り、侵入者を追い詰める。相手は見事なステップで数撃を回避するが、彼は鉄棒を両手で握り締め、渾身の力で相手の喉元に押し付けた。相手の体格はこちらより遥かに華奢だ。このまま力まかせに押さえ込んでやる――!

濃いバイザーのため表情は見えないが、動揺と苦悶が伝わってくる。もう一息だ――思った瞬間、相手の肩口で、かちり、と何かの仕掛けが作動する音がした。次の瞬間、目と鼻に霧状の何かが吹きつけられた。

目の表面に紙やすりをかけられたような激痛と、レモンとタバスコと胡椒を何百倍にもきつくしたような刺激臭。相手を押さえ込むどころではない。鉄棒を落として後退するしかなかった。無防備になった腹に、強烈な蹴り。ダンプカーにでも衝突されたような打撃。後方に吹っ飛ぶ。

横倒しになった視界に、侵入者がよろめきながらも銃器を拾うのが見えた。起き上がれない。顔面と腹の激痛に身をかばう余裕もない。黒々とした銃口がこちらに向けられる。その上の、フルフェイスヘルメットに覆われた頭部。やはり表情は見えない。

なぜだろう―—一瞬、相手の奇妙な逡巡のようなものを感じた。どうした、やれよ、と挑発する余裕はない。だが彼は、寸分なく動いていた精密機械が何かを狂わせたような違和感を感じ取った。

だがそれも一瞬で、銃口の揺らぎがぴたりと止まる。決意を新たに、ってところか。彼は頭を垂れた。それならそれでいいや。やってくれ。

何か状況にそぐわない、ぽんという間抜けな音が響いた。だが次に発生した効果は絶大だった、倉庫の中に、猛烈な勢いで白煙が立ち込め始めたのだ。

「動くんじゃねえ!」大型のリボルバーのような武器を構えた男が走り込んでくる。ガスマスクでくぐもっているが、その声は確かに彼を追ってきたあの「追跡者」の男だった。男はさらに武器――暴徒鎮圧用のグレネードランチャー――を構えて発砲。射出されたガス弾がさらに白煙を充満させる。

彼に向けて銃口を向けていた侵入者が、確実に動揺する気配。全身の力を振り絞り、起き上がる。涙と激痛で歪んだ視界――だが、相手の方向はわかっている。そして彼の脚力は、30センチあれば全力疾走に移れる。

頭を下げ、肩部を相手に向け、半ば跳躍するようにして体当たりした。爆発するような衝撃。さしもの相手もひとたまりもなく後方へ吹き飛ぶ。足がもつれ、倒れそうになる。誰かの手が彼の身体をしっかりと支えた。掌のひどく熱い感触。

「お粗末だったな、けだものの坊っちゃんよ……だが殺されなかったことだけは褒めてやる」

舌がもつれていたが、声は出た。「あんた……どうして……」

「俺の仕事はリアルタイムで進行中なんだよ。しっかりしろ、お前を狙ってるのがこいつ一人だけだとでも思ってんのか!?」

男はまたガス弾を射出した。どうやら倉庫の外からの監視に対する目くらましのつもりらしい。「何はともあれ貸し一個だ。今度こそ着いてきてもらうぞ。自分の足で歩けるな?」選択の余地はなかった。彼は支えられるというより背負われるような姿で、涙と鼻水を垂らしながら歩き出した。

「入れ」車の後部座席に押し込まれる。ドアが閉まる音、車のエンジン音。顔面に冷たいタオルが投げつけられた。

「拭け。今のお前、丸めて捨てられたみたいな顔してるぞ」顔の涙と鼻水と涎はぬぐったが、目と鼻の痛みが消えない。「効果が切れるまで我慢するんだな」

バックミラーに目をやる。倉庫がどんどん遠ざかっていく。彼が一人の男を数日に渡り拷問し、そして結果的に死なせた倉庫が。

ハンドルを握る男がぽつりと呟く。「忘れるな。お前に全ての原因があるとは言わんが、あいつを死なせたのはお前だ。……ああ、お前が誰かを死なせるのは二人目だったか」

言い返せなかった。身動きできなくなるほどの屈辱と敗北感が全身を覆い尽くしていた。なけなしの金と時間と手間を費やし、さしたる成果も上がらず、結果的に人を死なせた。これが敗北でなくて何だろう?

「恥じ入る気持ちがあるんなら、まだ取り返しはつく」男の淡々とした声が余計に突き刺さるようだった。「お世辞じゃなく言うが、お前はたった一人でよくやったよ。だがそれにも限界があるのは、これでよくわかっただろう?」

黒の日輪【6】包囲網

 「おい兄ちゃん、俺にもこいつと同じのを一人前くれや」給仕の青年に愛想よく声をかけてから、男は勝手に目の前へ座った。睨みつける視線に気づくと、わざとらしく掌を振ってみせる。「怖い顔すんなよ。それとも何か、前菜代わりに俺をかじろうってか?」

 失敗だった――彼は内心歯噛みしていた。空腹と疲労で警戒を怠ったこともだが、そもそもこの男が自分の目の前にいること自体、自分が致命的なミスをしたことの顕れだ。逃げるのは簡単だ。だがなぜこの男が自分の居場所を突き止めたか、それを知らずに逃げるのは単純に捕まる以上に、もっと危険だ。

「腹を空かせたけだものの仔が一匹、食い物の匂いに誘われて人里まで降りてきたか」男はテーブルの木目を意味もなくなぞりながら、頬杖をついてそう呟く。揶揄の欠片も含まない淡々とした口調が、かえって気に障った。

彼の視線に気づくと、男は頬を歪めて笑った。「そう悔しがるこたあないやな。いいじゃないかよ、確かに迂闊っちゃあ迂闊だが、その程度の可愛げ、誰にでもあっていいと思うぜ?万事そつのない犯罪者なんて、社会の害毒でしかないんだからな」

彼はただ黙って男を睨みつけた。敵か味方かわからない男に保護者面されるいわれはないと言いたかった。その時、給仕の青年が見事なバランスで両手に盆を持って運んできた。男は両掌を打ち合わせて乾いた音を立てる。「とりあえず飯だ。お前をさんざん探し回ったから腹が減ったよ」

何か文句を言ってやりたかったが、目の前に置かれた盆から立ち昇る芳香は空腹にはたまらないものだった。ハーブを浮かべた香辛料入りのスープ、海老と野菜が透けて見える生春巻、上に半熟卵が乗った挽肉入りご飯。見ているだけで口中に生唾が湧いてくる。

男も同様だったようで、いそいそと箸を手に取った。「細かい話は食ってからしようぜ」だがそこで思い直したように手を止め、「いただきます」と言った。それから、ばつが悪そうに呟いた。「俺の実家は躾に厳しくてよ。『いただきます』を言わないと、絶対に食わせてくれなかったんだ」

そう言われると何も言わずに食うのも気が咎めた。彼は軽く頭を下げ、いただきます、と言った。――普段よりはトーンを落とした声で。それからすぐに顔を下げて食べ始めた。顔を上げなくとも、目の前の男が妙に嬉しそうな顔をしているのがわかった。自分と男の両方に腹が立った。

しばらく、二人は一言も口を聞かずに食べた。

彼が一滴残らず中身を呑み干した椀を置くのと、目の前の男が最後の米の一粒を口に運ぶのは、呆れたことにほぼ同時だった。それに気づいた男が、してやったりと言わんばかりの笑顔を浮かべる。また腹が立った。

「さて。腹一杯になったところで」男が口を開いた瞬間、指の間に挟んだ二本の箸を男の顔面に突きつけた。店内の雑音が一瞬で途絶える。給仕の青年や周囲の客が凍りつく中、男はゆっくりと瞬きしてみせた。「危ないな。箸を人に向けちゃいけませんってパパとママに教わらなかったか?」

「何のつもりだ。どうして俺につきまとう」

「お前が逃げるからだろ。ここに来るまでどんだけ金と手間をかけたと思ってるんだ」男は突きつけられた箸を払いのけるように手を振ってみせた。「まあいい。お前にな、ぜひとも会わせたい人がいるんだ。一緒に来てくれや」

「断る。俺にはやることがある。それが終われば考えてやる」

「そりゃお前が今やってる、楽しい楽しい拷問ごっこのことか?」返事の代わりに箸をさらに男の目に近づけたが、微動だにしない。「おかげで街のちんぴらまでもがぴりぴりしてやがる。お前について話を聞こうとしたら、行く先々で怖い連中が湧いてくるんだぜ。俺がどんだけうんざりさせられたか、ちったあ想像してほしいもんだ」

「何か用があるんならそいつから来い。もっとも俺も当分潜らせてもらうが。今日みたいなへまはそうそうしない」

「そりゃよかった」男はどうでもよさそうにいい――そして手を動かした。

とっさに顔を反らしたのはほとんど本能だったが、結果的にそれは正しかった。男の袖口から強烈な閃光が放たれる。半目になっていてさえ、目の裏まで焼きつくようなまばゆい光。

だが一瞬の隙が仇になった。箸を持つ右手が払われ、真下から掴み直される。しまったと思った瞬間には視界が一回転していた。内臓が浮く一瞬の浮遊感の後、背からテーブルに叩きつけられていた。

彼の全体重を受け止め損ねたテーブルが背で潰れる感触。木片と陶器の破片を撒き散らし、大音響とともに彼は床に叩きつけられた。衝撃に呼吸が止まる。逆さの視界に、男がこれみよがしに袖口に仕込んだ何かを見せつけた。

「フラッシュライトだ。悪いがズルさせてもらった。俺がまともに殴り合いで勝負するとでも思ったか?」肩をすくめてみせる。「ひきずってでも連れてこいとの仰せでな。お前には拒否権もなければミランダ警告もなしだ」

そうかよ――口中で呟く。じゃ、こっちも「容赦なし」だ。

仰向けのまま両手を床に就き、全体重を乗せた両足蹴りを男の顔面に放った。さすがに予想外だったか、男が驚愕の表情。それでも腕で蹴りを防いだのはさすがだが、それが彼の狙いだった。後方へ宙返りし、距離を稼ぐ。

「抵抗するのは勝手だが、意味がわからねえぞ、けだものの坊や……」なぜか男は、にやりと笑ってみせた。「人里にまぎれようったって、狩りたてられて、てっぽうで撃ち殺されるのが落ちだろうに……」

もう耳を貸したくなかった。近くのテーブルから碗をひったくり、中身をぶちまける。

もうもうと立ち昇る白煙。周囲の客が怒声と悲鳴を上げてのけぞった隙に、禿げかかった額に手を突いて跳躍し、隣の客の肩を踏み台に店の外へ大きく跳躍した。通りかかったバイクが急ブレーキをかける。その荷台をさらに蹴って、低い隣家の屋根に飛び乗る。

振り向かず、そのまま全力疾走に移った。男は追ってこなかったが、その意味を考えようとは思わなかった。

「すげえ動き。何だよあいつ。猿飛佐助か何かか?」頭を振った男は、ふと振り向いた。食事を台無しにされた客たちの怒りの視線と、給仕の青年の哀しげな眼差しが男一人に注がれていた。「これ……やっぱり俺が弁償すんのかな」

 

【〈物見〉より〈星〉へ。〈蛇〉が動き始めました。ご指示を】
【〈星〉より〈物見〉へ。まだ対処は無用です。巣穴に戻り次第、こちらで確保に移ります。予想外の事態に備え、警戒は怠らないで】

【しかし、確実を期すならやはり増援の要請を——】

【〈蛇〉が賓客を殺し、巣穴を放棄する可能性は低くありません。今必要なのは時間です】

【――了解。ただし、具申は致しましたよ】

 

饐えた空気の立ち込める倉庫へ、彼は戻ってきた。捕らえたイゴールの様子を見ると、彼は戒められたまま傷だらけの顔でいびきをかいていた。なんとなくほっとはしたが、安心してばかりいられないことにも気づいた。あの男なら早晩ここの位置も嗅ぎつけるだろう。その前に移動しなければ。

イゴールの利用価値ももうない。安全な場所に逃げた後なら解放したところで――そこまで考えて、彼は自分の過ちに気づいた。もしかすると、もう遅かったのかもしれない。

姿も物音もないが、何者かが近くにいる。もう、倉庫の中にまで入ってきている。

誰何などする気はなかった。彼は身をかがめ、侵入者の気配を感じ取ることに集中した。

倉庫の床は砕けたコンクリ片や錆びたボルトなどが散乱しているが(ここをまがりなりにも通れるようにするには一手間だった)驚くほど物音を立てない。特殊な素材のブーツでも履いているのか。

「だ、誰だお前……?」眠りこんでいたイゴールが顔を上げる気配。「も、もしかして俺を助けに来てくれたのか?だったらあの糞野郎をぶち殺してくれ……いや、それよりまずほどいてくれ!お礼は幾らでもする、いくらでも!」

まるでシャンパンの栓を抜いたような、くぐもった射出音が数回。それが返事だった。苦痛というより何かに驚いたような吐息。そして、耳の痛くなるような沈黙。

一定の間隔を置いて、何かが床に滴り落ちる音。彼は頭を巡らせた。どうやら、侵入者は第一目標を果たしたらしい。では第二目標は?

侵入者の気配が動き出す。大小何かの破片が散乱する床を物音一つ立てず、凄まじい速さで。奇妙なほど冷えた頭で、なるほど、と納得した。

反射的に身を翻す。再びあのくぐもった音。数秒前まで彼の頭があった空間を飛翔体が貫き、壁に火花を散らす。暗さと距離を考えれば恐るべき精確さだ。

しかしどうする?飛び道具の威力は侮れるものではないし、追手は凄まじい速さで追いすがってくる。何より、侵入者があいつだけとは断定できない。どうする?どうやって、勝つ?

不意に笑いの衝動に捉えられ、彼は唇を歪めた。イゴールから引き出せた情報はとても労力に見合う成果ではなかったが、思わぬ副産物をもたらしたわけだ。俺の追うものが妄想ではないとわかっただけでも素晴らしいじゃないか。

暗い笑いと共に彼は決意した。撃退するだけではもったいない。これ以上は無理というほど泥を吐かせてやる。――それが俺のできる、あの人への、せめてもの弔いだ。

黒の日輪【5】追跡と尋問

 「こんなことをしてただで済むと思っているのか?」

四肢を縛られた不自由な姿で、イゴール・ザトヴォルスキーは必死に身をよじっていた。デスクライトの光が顔面に向けられ、目をまともに開けていられない。「お前がどこの誰だろうと、この礼は必ずするぞ……お前だけじゃない、お前の一族郎党にもな……」

「脅し文句としちゃ陳腐だな、ザトヴォルスキーさん」響いてくる声に感じ入った様子は微塵もなかった。「俺の家族構成にまで思いを馳せていただけるなんて汗顔の至りだ。でも、俺だってあんたについてそれなりに調べたんだぜ。表裏両面のビジネスも、あんたの家族や若い愛人のこともな」

「お前、この国のサツじゃないよな……あいつらにこんな無茶苦茶ができるわけがねえ……チャイナやコリアとはこの前手打ちしたばかりだ……ヤクザなのか?日本のオルガニザーチャ(犯罪組織)なのか?今になって俺相手に憂さ晴らしなんてお笑いだぜ!この国はもう乗っ取られたも同然なのにな!」

返ってきたのは含み笑いだった。「まあ、あんたに想像できるのはそのくらいだろう。好きに想像しておけばいいさ、想像は万人の自由だからな」何かを取り上げるごとりという音。「それよりあんた、自分のこれからについて想像した方がいいんじゃないかね……?」

大振りの布裁ち鋏が、余計な前置き一つなしに袖口を切り裂いた。最近目立つ腹肉が気になってきたので、思い切って奮発したオーダーメイドのスーツだ。

「おい貴様何しやがる......幾らしたと思ってるんだ!?」

「高かったんだろうな、わかるよ。あんたのぶくぶく肥え太った身体を見栄えのするように繕うのは、なかなか挑戦し甲斐のある仕事だったんだろうな。いい買い物をしたと思うよ。だからやるのさ」

声も、鋏の動きも止まらない。「このスーツだけじゃない、あんたはいろいろなものに守られている。優秀なボディガードと番犬、豪邸とセキュリティシステム、そして地位と名声。たくさんのものがあんたを包んでいる。まるで赤ちゃんのおくるみみたいにな。自分には誰も手出しできないと思い込んでいる。だから、まずはそれを奪うのさ。そうすれば、自分がいかに脆くて儚い生き物かわかるだろう」

冷たい金属が汗ばんだ肌の上を滑る。スーツは瞬く間にワイシャツごと切り裂かれ、無数の布片となってしまった。今まで感じなかった寒さに、イゴールは総毛立つ。

「ほら、自分がいかに脆くて儚い生き物か、そろそろ実感が湧いてきただろう?」

 

「……ひどい、こんな綺麗な車なのに……」スクラップと化したそれを見た瞬間から、青年は泣かんばかりだった。「これを壊した人は、車について相当勉強したんだと思います。でも、それを......こんなひどい形で使うなんて……」

本当に目を潤ませている作業服の大柄な青年を見て、男は開いた口が塞がらなくなった。「いやあのな、それはわかってるんだわ原田君。わかってるから、『犯人』がどういう手口を使ったか説明してくんないかな。俺、キミほど車に詳しくないからさ」

「はい、そうですよね……ごめんなさい……」青年は袖口で目元をぬぐったが、それでもまだ鼻をすすっていた。「最近は会社の重役や社長クラスの人がこのタイプの防弾防爆仕様車をよく発注していますから、僕の工場でもよく見かけるんです。だから、見当はつきます」

青年の指がタブレットの上で踊り、車の立体図を表示させる。

「防弾ガラスは強化ガラスとポリカーボネイトとの2重構造で銃弾を防ぎます。これによりたとえ銃弾がガラスを破損しても、ラミネートされたプラスチック膜が衝撃を分散、中の人員を守るわけです。『犯人』はこれに極低温の液体をかけることでガラスを脆くし、膜を劣化させたんでしょう」

人が変わったような滑らかな語り口に男は感心する。正直、この青年も「候補」の一人ではあったのだが、メンタルの弱さは致命的だ。まあ現状では補欠と言ったところか。

「運転制御システムへのハッキングは?」

「今の車は走るコンピュータみたいなものですから、高度であればあるほどハッキングには脆弱になります。今回はカーナビからですが、車内で携帯機器をいじっていればそれを踏み台に無線LAN経由で侵入することも不可能じゃありません。今後はうちの工場でも対策を考えないと……」

まさにSFだなあ、と男は呟く。「いや、しかし助かったよ原田君。正直俺一人じゃ手詰まりだったもんでね」大柄な青年はまるで少女のようにはにかむ。「とんでもないです……これを調べるだけで、あんなに貰っていいんですか?」

「ああ、コンサルタント料だと思ってくれ。何か旨いものでも食いなよ」

「なあおい、和気あいあいとしているところ悪いが、俺の車を全損にしやがった野郎の目星はついたのか、望月さんよ?」粗末なパイプ椅子に逆向きに座った趙安国が、不機嫌そうに椅子をがたがたさせながら口を挟んできた。「俺はそのために恥を堪えて、何もかも喋ったんだぜ?」

不機嫌そうな趙に、青年は巨体を縮めて恐縮したが、男はわざとらしく溜め息をついた。「そう急くなって趙さん、手口がわかれば次に打つ手も大体限られてくるってもんだ。慌てる何とかは貰いが少ないって言葉、あんたの国にもあるだろ?よくは知らんけど、何か四字熟語でそれっぽい奴が」

 「余計な御世話だ。とにかく、その豚野郎の寝ぐらを突きとめたら真っ先に教えてくれよ。相応の礼はする。結局商売には大穴を開けちまったし、大金はたいて雇った護衛は利き指を折られて当分使い物にならないんだ」

「ああ、そのことなんだが、金は要らないんだ。その代わり2つ条件がある」

「何だ?」

「報酬は別のところから出ることになっているんだ。だからあんたがそれを守ってくれれば、必ずそいつを探し出してやる。駄目なら俺の素っ首でも金玉でも好きなだけ持っていけばいいさ。もっとも失敗した時、俺に両方とも残っているかどうか大いに怪しいがな」

「……いいだろう」

「まず1つ。あんたら〈密売人〉のコミュニティに動きがあったらすぐに知らせること。俺だって先を越されたくはないし、あんたも死体を土産に持ってこられても困るだろう」

「なるほど道理だ」

「2つ。この件の始末は、俺に全部任せること」

「おい、そりゃないだろう!?コケにされたのは俺なんだぜ、俺自身が野郎を切り刻みでもしなきゃ、この国で商売やってくどころじゃねえ、ずっと笑い者にされっちまう!」

「その心配はないだろう?笑い者にされているのはあんた一人じゃないんだからさ」

「何の話だ?」

「おとぼけはなしだぜ。あんたらだけじゃねえ、インド人もロシア人も、とにかくご禁制のブツを扱ってる奴らは今、血眼になってらあ。なあ趙さんよ、この件に関しちゃ俺がきっちり型にはめてやる。だから、自分の手で復讐するのは諦めろ」

趙は眼前の男こそが犯人だと言わんばかりの目つきをしていたが、やがて頷いた。「……わかった。だが、今の言葉は忘れるなよ」

 

 「……拷問ってのは、あれはあれでなかなか難しいんだってな。やりすぎて殺しちまっちゃ拷問にならないし、拷問される側が苦痛から逃げるために出鱈目や偽の情報をでっちあげちまうこともある……イラク戦争でCIAがやらかした拷問も、どこまで有効だったか怪しいらしいしな」

ゆっくりとした、語り掛けるような口調の背後に水の滴る音が混じる。そして微かな呻き声も。

「それよりはまず穏やかな話で相手の心を開かせ、好意と信頼を得てそいつの方から自発的に喋らせた方がいいって説もある。どっちが正しいのか、俺にはわからない。その筋の専門家ってわけでもないしな。ただ一つだけ言えるのは……」

彼は水に濡れて重くなったタオルで、思い切りイゴールの顔面を張り飛ばした。びしゃりという音とともに太り肉の顔が衝撃で揺れ、鼻から血が噴き出す。「俺はあんたの好意も信頼も、どちらも欲しくないってことだ」

どくどくと鼻孔から血を垂れ流しながらも、イゴールは口元を歪めてみせた。嘲笑おうとしたらしい。

「大したことないって、お前のやることはこの程度かって思ってるな?いいさ、今のうち笑ってろよ。その方が後で楽になる」

「もう一度最初から聞くぞ。17年前、沖縄、偽装核、『ネクタール』、HW。これらの言葉に聞き覚えはあるか?」

 

――遥か高空から自分を見下ろす「目」があることに、まだ彼は気づいていない。

 

ぽたり、ぽたり、とタオルの先から液体が滴る。水と、それに混じった血の色。

「あれこれ考えたんだが、爪を剥いだり指を切り落としたりってやり方はやめたよ。感染症でも起こされたら素人にはどうしようもないからな。だから一番単純な方法にした。つまり......死なない程度に殴る」彼は水に濡らしたタオルで、イゴール・ザトヴォルスキーの横面を思い切り張り飛ばした。

「そろそろ効いてきたんじゃないのか?初めは何だこんなもんか、と思っていた一発一発が、そろそろ辛くなってくる頃だろう?」返す手で反対側の横面を張る。「『脳を揺らされる』のが、長い目で見ると一番効くやり方だからな」

事実、イゴールにはもうせせら笑う余裕もないようだった。その顔面はサッカーボールのように腫れ上がり、どす黒く鬱血している。鼻孔と口の端から鼓動に合わせて血が滴り落ちている。忌々しげに見上げてくる眼光にも、目を覚ました時ほどの迫力がない。

「質問に戻ろうか。一番簡単な奴から始めるぞ。17年前、沖縄。何を連想する?」

「家に帰って……お袋とやってろ」

物も言わず、濡れタオルを振るった。イゴールの首が激しく揺れ、血と唾液が飛沫になって飛んだ。「汚い言葉を使うなって、お母さんに教わらなかったか?」

イゴールは酷くむせた。咳がおさまってからも、笛を鳴らすような呼吸音はなかなか元に戻らなかった。

 「そんなに難しい質問をしたか?それとも今の質問の答えがそれか?ならもう一発」

濡れタオルを振り上げると、イゴールは必死で首を振った。何か言おうとしているようだが、血混じりの涎が口の端から滴り落ちるだけで言葉にならない。「……言えば殴らない」彼はうんざりして手を下ろした。自分の手が殴りすぎて痺れ始めていることに気づく。

「畜生が、なんで……なんで俺なんかを痛めつける必要があるんだ……俺はただの『運送屋』なんだぞ……」

「その運送屋さんに用があるってさっきから言ってるだろ。いいから話せ」

「17年前でオキナワって言ったら、一つしかねえ……〈第2次オキナワ上陸戦〉だ」

「思い当たるところがあるじゃないか」彼は失笑した。「〈上陸戦〉と名の付いている割には、実際はちっとばかり大規模なテロに過ぎなかったはずだがな」

「だが被害は甚大だ……何しろ那覇市そのものが、小型戦術核で吹っ飛んだんだからな。ああ、覚えているさ……当時の俺は本当に使いっ走りで、あの頃のオキナワは運び屋が何人いても足りない状態だったからな」イゴールは滑らかに喋り出した。喋っている間は殴られないことに思い当たったらしい。「今思い出しても怪しげな連中がうようよしてた。初めは軍需物資、後半は救援物資」

「まさに無辜の人々の生き血をすすったってわけだ……」

「何とでも言え。必要とされているから、俺たちはそこへ行ったんだよ。良き商売はそこにある、って奴だ」笑おうとして失敗し、イゴールは咳き込んだ。「その程度の情報なんて、ネットを漁ればすぐ拾えるんじゃないか?俺に聞くまでもなく」

「察しがいいな。俺が聞きたいのはその『先』だよ」声がその若さに似合わない陰々滅々とした響きを帯びた。「あの日海兵隊の通信施設と補給基地を襲った国籍不明の特殊部隊は、ヨーロッパ製の最新式火器とハードウェア群を装備していた。襲撃者たちの身元は一切公表されず……調査チームは組織されたようだが、結局成果を上げる前に解散。中国軍の特殊部隊という説もあるが、それだって推測の域を出ない」

「そりゃそうだ、不正規戦部隊がご丁寧に自分の国の火器を使うわけもないだろ?」

「あんたなら知ってるんじゃないかと思ってね。当時の『空気』を肌で感じていたあんたなら」

「知るわけがないだろう、それともお前もあれか?米帝の陰謀とやらを信じているクチか?頭にアルミホイルでも巻いてろ!」哄笑が、途中で凍りついた。

「やめろ!」遅かった。唸りを上げる濡れタオルが真正面から振り下ろされた。まるで本当に拳を食らったように鼻血が飛び散る。さらに横面に二発、三発。「やめろ!やめてくれ!喋ってるだろう、殴らないでくれよ!頼むから!」

「……聞かれたことにだけ答えろ」さすがに肩で息をしなければならなかった。「今羽振りのいい〈業者〉は、どいつもこいつも当時の沖縄で荒稼ぎした奴らだ。お前が取るに足らないと思っていることでも、俺にとってはそうじゃないかも知れない……次の質問だ。『ネクタール』という名前の意味は?」

「た、確かに知ってる……インドの何とかって製薬会社が作った麻酔薬だ。副作用が強すぎるから発売中止になったが、サンプルの一部が流出して合成麻薬として売りに出されたらしい……だが妙なんだ、17年前を境にふっつりと流通ルートに上がらなくなった。まるで最初からなかったみたいに」

「名前とルートを変えたか、〈業者〉に頼る必要がなくなったのか……だな。『偽装核』は?」

「押収された襲撃部隊の『核』は、精巧に作られたレプリカだったって話だろ?それは本当に知らん。CIAの陰謀なんて、それこそ真に受けたくもない馬鹿話だろ」

「……よし。じゃ最後の質問だ」

声が隠し切れない熱を帯びた。

「『HW』。これだけがどうしてもわからない。何の略称なのかさえ。17年前の沖縄の真実とやらを吹聴して回る奴らも、これについては何一つ言わない。まるで台風の目みたいに……逆に言えば、こいつはあの〈第2次オキナワ上陸戦〉の核心となる『何か』なんだ」

「俺は知らない。それだって他と同様、どうでもいいもんに決まってる。さっさと俺を解放して、政府の陰謀と戦ってろよ。お前の頭の中にだけにある、ありもしない陰謀とな」

「......そんなはずはない」声が震えるのを抑えられなかった。

「そうか、お前、知り合いか!知り合いがあの時、あそこにいたのか!」まるで最後の力を振り絞ったような凄まじい哄笑。

堪え切れず、濡れタオルを振り下ろした。5度、6度、7度、8度。

室内に響く、荒い自分の呼気で我に返った。イゴールはすすり泣いていた――度の過ぎた折檻を受けた子供のように。手から濡れタオルが滑り落ちたが、もう拾いたくなかった。彼はよろめくようにして部屋を出、壁に向かって嘔吐した。

 

やや間を置いて、彼はのろのろと動き出した。彼自身も疲れ果てていた。腹も減っていた。外の空気が吸いたかった。何より、すすり泣くイゴールと一緒にいたくなかった。

外に出ると静かで穏やかな昼前の晴天が広がっていた。見上げた空をゆっくりと横切っていく飛行機雲。遠くの高速道路上をのろのろと進む乗用車の列。風が埋立地の乾いた砂を舞い上げる。すべてが、今の自分にそぐわないと思った。

埋立地を出て、雑踏に入る。飛び交う無数の言語、入り混じる香辛料の匂い。暗い軒先を覗くと、ままならない人生に歩くのも嫌になったという風情の男女が昼間から一杯傾けている。誰も彼に構わない。彼も誰にも構わない。誰も彼もが他人という雑踏を歩いていると、孤独が少しだけ和らいだ。

旨そうな匂いが鼻孔を突いた。今にも崩れそうなビルの一角を強引に仕立て直した、数人座れば一杯になりそうな料理店。空腹には耐えがたい誘惑だった。半ば無意識のまま、彼は店に入った。

やたらと愛想の良い浅黒い肌の青年にメニューを指さして見せる。言葉は通じなかったが、意味は通じた。青年が厨房に消えると、疲労が全身に襲いかかってきた。尋問中は休憩どころかろくに座りさえしなかったのだから無理もない。

「……悪いね。ここ、いいかな?」

かけられた声に目を上げて、彼は凍りついた。旧友に偶然出くわしたような顔で目の前に腰を下ろしたのは、あの「追跡者」の男だった。

黒の日輪【4】接触

この部屋にいると、重々しい柱時計の音がまるで祖父の鼓動のようだ、と彼女は思う。とうの昔にこの世を去った祖父の心臓の鼓動に。では私は、今もまだ祖父の胎内にいるということになるのだろうか。

指先で艶やかな黒檀のデスクを軽く撫でる。これだけではない。窓のカーテンも、資料棚も、壁も床も、すべて黒い。祖父のことは好きだったが、この部屋だけは昔から何だか怖かったことを覚えている。真夏でも室内の空気は冷たく静かで、祖父の膝に這いあがろうと近づく時でさえ、少し息を詰めた。

祖父の死後、彼女は自分の居室をここに決めた。手を加えるのは最低限にした。小物類まで黒に統一するのは無理だったが、それでさえ祖父の部屋にぽつりと残った針先ほどの小さな染みにしか見えなかった。それでいいと思った。祖父のよすがを完全に除去しようとは思わなかった。

卓上電話が軽やかな電子音を立てた。受話器を取ると、聞き覚えのある男の声が流れ出た。

【捉えました。市内へ向かっています】挨拶抜きで相手は要件を切り出した――彼女がそれでいい、と言ったからだ。【ここ数日、郊外のカプセルホテルを転々としていたようです。買い物も済ませ、いざピクニックへ出発、といったところですかね】

減らず口を我慢できない点に目をつぶれば、男は実に有能なリサーチャーだった。【ブツを手に入れた以上、奴にもう我慢する理由はないんでしょう。少しだけ顔を見ましたが、今にも何かしでかしそうなツラでした。やる気ですよ、奴は】

背筋に戦慄が走った。事態は予想以上に急転しつつある――それも最悪の方向へ。

「彼を抑えてください。できれば、市内へ入る前に」

【努力はします。ただ難しいでしょう。奴の性格からして無関係な人間を巻き込むことは極力避けるでしょうが。問題はその、閾値だ】

「お願いします」

【そうだ、奴の中学時代の担任と友人に会いました。後で送ります――興味深いですよ】通話は切れた。彼女は手の中の受話器を見つめた。なぜ自分がそんなものを持っているのかわからないような顔で。

受話器を元の位置に戻す、それだけの作業にひどく時間がかかった。震える手でそれを置いた瞬間――右肩に凄まじい激痛を感じた。身をよじりながら、ああまただ、と思った。何年も前に癒えたはずの古傷が発する、存在しないはずの痛み。祖父が死の間際、最後に自分に与えていったもの。

受身すら取れず、椅子から転げ落ちた。右肩が燃える。悲鳴すら上げられず、右手の指先だけが電流でも流されたようにびくびくと痙攣するのを歪んだ視界の端で捉えた。そして耳の奥で弾ける、祖父の凄まじい怒声。今際の怒声。『牝犬の息子と!淫売の娘が!そろって私をたばかったな!』

違います――違うんです、お祖父様――私はあなたを裏切ったことは一度もありません――今までも、そしてこれからも――声にならなかった。呻き声一つ上げられず、彼女は失神した。

「ご当主。……ご当主?」

ドアの外からの心配そうな声に、彼女は眼を開けた。返事をするために、渾身の力を振り絞らなければならなかった。「……ごめんなさい。少し、躓いただけです。心配してくれてありがとう」

声は躊躇いがちにドアのすぐ外に佇んでいたが、彼女がもう一度「大丈夫です」と言うと、ゆっくりとその場を離れた。彼女はよじ登るようにして椅子に這い上がった。全身が冷や汗にまみれ、指先はまだ酷く震えていたが、誰かを呼ぶ気にはならなかった。誰にも、自分の今の姿を見られたくなかった。

――呼吸を整え、目を見開いた時、卓上のホルダーに入れられた一枚の写真が目に入った。無意識の内に、手が伸びていた。指先でそっとなぞる。写真の中の、青白く痩せた、服に着られているような少年の顔を。

「……静かで穏やかな人生をあなたに歩んでほしい、それが私の偽らざる思いでした。でもそれは、あなたにとっては地獄でしかなかったのですか?」

答えがあるはずもない。写真を戻し、卓上の受話器を取る。指先の震えが止まっていることを確かめる。深夜にも関わらず、相手はワンコールで出た。

「私です。例の計画を実行します」

 

目的地まであと停留所二つ分の距離でその男は車内に乗り込んできた。短く刈った頭髪、着心地の良さそうな麻のスーツ、綺麗に磨かれた革靴。中肉中背の、どちらかと言えば目立たない外観の男。気軽そうな足取りに反し、靴音が一切聞こえない。一目で直感した――こいつは追跡者だ。

これから行うことに逡巡を覚えなかったわけではない。余計な「紐」がくっついていることを思えば尚更だ。だが考えてみれば、行動を中断したからと言ってこの男が自分を見逃すわけでもない。希少な機会を逃し、追跡者を振り切る手間だけが残る。半月近い準備の結果としては面白くないオチだ。

むしろ――少し、口元を緩めた。これからやることの一切合財をあいつに見てもらうのも一興かも知れない。さぞかし度肝を抜かれるだろう。その顔をじっくり見られないのが残念なくらいだ。

(……何を考えている?)

降車ドア近くの座席に腰を下ろした「彼」の背中を見て、男はいぶかしんだ。ぼさぼさの頭髪と、お洒落とはほど遠いモスグリーンのハーフコート。周囲より頭一つ高い上背と暗い目つき以外、ぼんやりと手元の携帯をいじっている様子はそのへんの若者と変わらなかった。

ひどく眠そうな目つきのサラリーマン、散歩中らしき杖をついた老婆、単語帳を手にした小テストの準備に余念のない中学生たち。いつもの朝の通勤バスの光景だった。「彼」は立ち上がり、立っていた老婆に席を譲ろうとした。男は呆れた――模範的な市民じゃねえか。

もごもごと聞き取りにくい声で礼を言って座る老婆に「彼」は軽く頭を下げ、立ったまま携帯の画面に目を落とした。バスが止まり、停留所から乗客たちが乗り込んでくる。市内まであと停留所一つ分、数百メートルの距離。

ずいぶんと見事に猫かぶったもんだ、男は口中で呟く。その若さで大した自制心だよ。俺がお前ぐらいの頃を思えば尚更だ。だがそれで、お前が得られたものは何だ?世間一般がお前に下した評価はどうだ?それはお前にとって、相応しいと言えるものだったのか?

中学時代の教論の話――「ええ、あの子のことは良く覚えていますよ。大人しくて真面目で、少し陰気ではありましたけど、陰険ではありませんでした。口数は少ないけど、口を開く時は気の利いた冗談で受けを取っていたみたいですし......本も好きで、良く図書室で過ごしていました。『すばらしき新世界』を読んでいるのを見て、私がずいぶん難しい本を読むのね、と言うと、不思議そうな顔をされましたよ。全然難しくありません、すごく面白いですよ、って。だから私、あの子はきっと将来素晴らしい人物になるって思ってたんです」

元クラスメートの話――「あいつと同じクラスになったのは中3だったかな。入学したての頃はがりがりに痩せてたらしいけど、1年ぐらいですごい勢いで身体がでかくなり始めたみたいだ。周りはみんな怖がってたよ。話してみればいい奴だってすぐわかるのに。

身体を鍛えていたせいもあったんだろうな。鬼気迫る、って言ってもおおげさじゃないくらいだった。みんな噂してたよ、将来人でも殺すつもりなんじゃないかって。本人は真にも受けてなかったけどな。

女の子とは……付き合っていた子は何人かいたみたいだけど、長続きはしなかったみたいだ。本人に言わせれば別れ際に『人の魂がない』ってさんざん罵られたってさ。中学生のガキが魂って何だよ、って思わず笑っちまったけどな。あいつも苦笑いはしてたよ。

いい奴には違いなかったから、きっと俺たちなんぞとは比べ物にならないくらい大物になるんだって思ってたよ。実際、そうなるはずだったんだ……あんな事件さえ起きなければ」

いい子、いい奴、いい生徒――思い出しながら男は呟く。そう、お前を知る奴は皆口をそろえる。あんな事件さえ起きなければ、ってな。だが俺はそうは思わない。あの事件が起きなくとも、お前の人生は別の形で破綻していたろうよ。さぞかし窮屈だったろう、真人間のふりをして生きるのは?

お前の犯した本当の罪を教えてやろうか。人を死なせたことか?確かに罪は罪だが、ありふれた罪でしかない。お前の本当の罪はな――けだものの子の分際で、人の世に生まれ落ちたけだものの子の分際で、真っ当な人間として生きようとしたことだ。

しかしどうしたものかな、男は考える。市内に入る前に抑えてほしいというのが彼女の依頼だが、見たところ今の奴は大人しい。このまま市内に入り、人気のない場所まで尾行してから――そこまで考えて気づいた。バスが停まっている。

「変だなあ、この道こんなに混むっけ?」「これじゃ着いてもHRぎりぎりだよ……」中学生たちの会話が耳に入る。嫌な予感。朝の渋滞など珍しくもないが、このタイミングで――ひどく胸騒ぎがする。

 

「おい、さっきから全然動かねえぞ!どうなってやがる?」車の後部座席でイゴール・ザトヴォルスキーは苛立った声を上げた。今回の「商談」は最近だぶつき気味だった大量のカラシニコフ自動小銃をさばけるまたとない機会なのだ。

「すみませんボス、どうも今日に限って渋滞が……」

「すみませんで済むか!今回の相手は時間にうるせえんだ、取引が流れっちまう!」運転手の言い訳にさらに腹を立て、眼前のシートを蹴りつけた。「まったく何てえ国だ!夏は暑くて湿ってる、冬は寒くて湿ってる。おまけに渋滞まで酷いのかよ!」

 

【車が動きます。おつかまりください】のろのろ動き出した車体に乗客たちが溜め息をつく。嫌な予感が膨れ上がった――そしてそれは的中した。次の瞬間、凄まじい衝撃が車体を襲った。耳障りなブレーキ音。悲鳴を上げてある者は床に転げ、ある者は手近な柱にしがみつく。

混乱の中、「彼」だけが的確に動いていた。首のスカーフを口元まで引き上げ、自然な動きでコートのポケットに手を滑り込ませる。抜き出した手には手品のようにスプレー缶が握られていた。ほとんど一挙動で、車内の監視カメラに塗料を吹き付ける。続く動きで、もう非常用開閉レバーのカバーを叩き割り、ぐいと引いていた。

【お客様、危険です!外に出ないでください!】運転手の悲鳴に近い警告を無視し、「彼」はドアを蹴破るようにして車外に飛び出していた。周囲では似たような大混乱が巻き起こっていた。周囲で車同士が玉突きに衝突し、路上の信号機が出鱈目に明滅している。

「……嘘だろ!?」自分で目にしてなお男は信じられなかった。「彼」はゴミ収集箱に突っ込んで停まった一台の車のウィンドウに、水筒に入れた何かの液体をぶちまけたところだった。白濁したガラスに容赦なくボルトニッパーの先端を突き入れる。おそらく防弾仕様のガラスが、容易くはぜ割れた。

ライフル弾さえ弾き返す防弾ガラスが粉々に割れ、鋼鉄の嘴のようなボルトニッパーの先端が鼻先まで突き入れられる。悲鳴を上げたイゴールは、黒い手袋に覆われた巨大な掌が自分の顔面に迫ってくるのを見て、もっと大きな悲鳴を上げた。

「彼」がまるで犬のリードでも引っ張るように、太り気味の男のネクタイを荒々しくつかんで割れた車の窓から引きずり出すのが見えた。馬鹿みたいに口を開けるしかなかった。あいつ、よりによってここでおっぱじめやがった……!

バスは陸橋の上で停車していた。しかし、ここからどうやって逃げるつもりだ?とっくに通報はされているだろうし、この渋滞では車で逃げようが――思った時、男の耳が近づいてくる轟音を捉えた。腹の底に響く貨物列車の走行音。まさか!

悪い予感はまたも的中した。速度を落としつつある貨物列車の屋根へ、「彼」は手摺近くまで引きずってきた男を無造作に蹴落とし、自らも身を投げた。

あいつがチェックしていたのは「目標」の現在地と、貨物列車の通過時刻か――怒声と泣き声が飛び交う中、男は携帯を耳に当てる。ワンコールで相手は出た。

「……逃がしました」

 

――ザトヴォルスキーはゆっくりと目を開け、まぶしさにすぐ目を閉じた。強い光が顔面に当てられ、まともに目を開けていられない。身をよじろうとしたが、ワイヤーのようなもので縛られてびくとも動けない。全身がずきずき痛むのに、身動き一つできない。

「どこだ、ここは......?おい、ほどいてくれよ……大事な商談があるんだ……」

傍らに人の気配が立った。顔は見えなくとも、その眼差しがこちらに注がれているのがわかった。

「諦めた方がいいな。車の事故なら先方も文句は言わないさ」やや硬いが、正確なロシア語。若い声ということぐらいしかわからない。

「いくつか聞きたいことがあるんだ、ザトヴォルスキーさん。安心しろ、全部喋るまで絶対に殺さないから」

黒の日輪【3】犯罪の犬ども

地主が夜逃げして土地ごと放棄された貸しコンテナが数十平方メートルに渡って居並ぶ湾岸エリア。雨ざらしのコンテナ群から住民たちの生活臭が否応なしに漂う。コンテナ間のロープに渡された生乾きの洗濯物、羽毛をむしられた鶏を煮込む土鍋、キムチと豆板醤とコリアンダーの入り混じった刺激臭。

自分がふさわしくない異物であるという思いに、彼の足はそこを通るたびいつも早足になった。一日中同じ場所に座り込んでいる老婆に持っていたコンビニのビニール袋を手渡す。老婆はもごもごと聞き取れない礼を言い、手まで合わせる。目をそらせ、目的のコンテナに入ってドアを閉めた。

錠を確かめ、天井の裸電球を着けると、さすがに今まで感じなかった疲労を感じた。肉体的な疲労だけではない、ここ数日間の努力が徒労に終わったことへの疲労。わかったことは、自分の読みが外れていたということだけ。それも貴重な金と時間と物資を浪費した揚句、だ。

ペットボトルの水を一口含み、少し頭にも被る。こんなことを繰り返して、意味があるのか――頭をもたげてくる弱気を無理やりねじ伏せる。時間は確実に消費している。今すぐ、できることをしなければ。

端末を起動させる。無骨な作業机の上に、買い込んできた資材を並べる。端末を参照しながら、決められた手順で決められた個所に部品を加工し、組み込んでいく。ケーキを焼くのと同じだ――耳の奥に懐かしい声が聞こえる。決められた材料を正しい容量で、時間通りに焼き上げるだけだ、と。

もし自分が死ねば、あの男から教えられた全ても共に消滅するのだろうか。――振り払い、手を動かすことに集中する。死後の世界のことなど、それこそ死んだ後で考えればいい。

 

「……ええ、誰にレクチャーされたのか知らんが慣れてますな。『ご禁制の品』は最小限、しかも複数の〈業者〉から少しずつ購入。必要な物資はそこらのディスカウントショップで入手可能。よっぽど筋の良い〈インストラクター〉から手ほどきされたらしい」

【彼が購入した物品のリストを送ってください】打てば響くような、彼女の涼やかな声が返る。

「ただちに」そうくると思ったよ、あらかじめ準備しておいたリストを送信する。一瞬の後、回線の向こうで明らかに息を呑む気配があり、男は少しばかり溜飲を下げた。

「見ての通りです」

【銃器や爆発物の類は見当たりませんが……】

「こけおどしの銃器に頼るつもりがないってことは、本気でしょう。奴はたった一人で戦争を始めるつもりですよ」

【彼の次の『目標』はわかりますか?】

「見当はつきます。俺が奴なら、それなりに目立つ奴を狙うでしょう」

【急いでください。彼が次の犯行に出るまでに】

「それはかまいませんが、止めるとなるとだいぶ荒っぽくなりますよ、俺のやり口はご存じでしょう?」

【やむを得ません……方法は任せます】

「……任せます、ね……」通話を切ってから、崇は一人ごちた。「どのくらい荒っぽくなるかは俺が決めていいってことなんでしょうな、ご当主」

それから、先ほど自分が送信したリストをもう一度見直す。「……お前がこれを何に使うか、想像しただけで背筋が寒くなるよ。生き急ぎやがって、餓鬼が」

 

――充電完了を知らせる軽い電子音。準備ができた、彼は微笑んだ。やはり電気の使える「部屋」を借りた甲斐があったというものだ。部屋の一角に立てかけられた、金属の格子で組まれた骨格標本のような代物。各国の軍・準軍事部隊に長年使用されている戦闘用強化外骨格『エンフォーサー』。

手首のスマートウォッチとOSの同期完了。手元の操作で、金属の格子はまるで布切れに変じたように硬さを失い、ぐにゃぐにゃと足元にわだかまった。革ベルトのようになったそれを固定具で服の上から装着していく。金属やモーターで構成されたハードタイプとは違う、ソフトタイプの強化外骨格。

上着を着ると、服の上からでは本当に見分けがつかなくなった。それに満足すると、今度は組み上がった幾つかの「道具」を物入れやベルトに収めていく。最後にそれらの上からさらに薄手のハーフコートを着込む。身体を動かし、激しい運動の邪魔にならないことを確認する。

それが終わると照明を落とし、もう二度と戻らない仮の住居を後にした。