誰にでもできる、簡単な荒事
エレベーターのドアが開き、相良龍一と望月崇は『ハイパーポリア沙河』38階のペントハウスに通じる通路へ降り立った。招待客を出迎えるつもりだったのだろう、一礼しようとしていた警備員2人が怪訝な顔になった。無理もない――龍一と崇は全身をオレンジ色の防護スーツにすっぽりと包み、ガスマスクで顔まで覆っていたからだ。
「ちょっとちょっと、あなたたち、何?」
「どうも、お疲れ様です。ミマナ・クリーンサービスの町田と申します。こちらは佐久間です」崇は愛想良く頭を下げたが、ガスマスク越しではどこまで伝わったか怪しかった。「こちらの『千田ドリィムイノベーション』様より、害虫駆除のご依頼を受けて伺いました」
警備員たちは顔を見合わせた。「害虫駆除? そんな予定聞いてないけどなあ……」
「そう言われましてもね……何しろ社長様より直々に頼まれまして」
「ああそう……まあ、それじゃ確認するから、これに名前書いて。はいこれペン」
「ああ、いいですよ、自前で」
崇は龍一に顎をしゃくり、龍一は頷いてペンを取り出した。キャップを外し――床に落とす。
バインダーを持つ警備員の手をペン先で突き、手首を返して首を突いた。目の前の警備員が痛みよりも驚きで目を見開き、声を上げようとして――その場に倒れる。手の中でペンを回転させ、目を丸くしているもう一人にアンダースローで投擲した。叫ぼうとしたその顔が瞬時に弛緩し、オーバーな仕草一つなく倒れた。
ガスマスクの内で息を吐いた。「ダーツの練習、しといてよかった……」
「練習したからってできる芸当かよ。相手は動かない紙の的じゃねえんだぞ。末恐ろしいガキだ」
【うまくいったみたいね】耳に装着したヘッドセットから十代の少女――瀬川夏姫の快活な声が流れ出た。【そのまま進んで。カメラは欺瞞済みだけど、次の定時連絡がなければ怪しまれるわ】
「わかってる。どっちみち、それまでに片付けられなかったら失敗だろうな」
『千田ドリィムイノベーション』とプレートに書かれた文字を確かめた。エンボス体で描かれた社名の真下に「この先企業私有地につき、関係者以外立入禁止」と書いてある。それにしてもこの会社、「ドリーム」ではなく「ドリィム」と表記して恥じない点が実に気色悪いと思う。
中庭からはマイクを使っているのか、講師の声が微かに漏れている。『皆さん、信じられないのはごもっともです。正直なところ、私も半信半疑でした。この商材を買うまでは……』
そっとドアを開けた。
体育館ほどの広さがある屋上は、ビュッフェ形式の宴会場となっていた。BBQグリルまで設置され、肉の塊が串に刺されて油を滴らせている。銀の器に盛られ た南国のフルーツ、色とりどりのピンチョス。ガスマスクを装着しているのに、芳香が鼻孔をくすぐるような気さえして、龍一は腹が鳴り出さないか心配になっ た。
簡素なステージの上にマイクを持った男性が立ち、その周囲でシャンパン入りのグラスや紙の皿を持った人々が聞き入っている。年齢はまちまち――子供を連れた若い夫婦、友人同士らしい着飾った中年女性やどこかの商業主らしい初老の男性など。
『これまで年収も300万いけばいい方だったのが、今では年収一千万。念願のマンションも車も手に入れ、愛想を尽かして去った妻と子も戻ってきました……』
それにしても予想以上の人出だ。隠密行動など本当にできるのかという気になってくる。
「……直接乗り込む必要があったのか? ドローンを送り込めばそれで終わる話だろ」
【そうは行かないから、あなたたちの出番なんでしょ。高所に衛星放送とは別のアンテナが見えない?】
見ると、確かに屋上や植え込みの陰に短めのアンテナが立っている。
「ドローン妨害システムか……」
【あれのおかげで、ドローンで偵察できなかったのよ。週刊誌の記者に空撮されそうになって以来、だいぶ慎重になったみたい。ペントハウス自体も壁や床に妨害素子が編み込まれていて、無線機器やEMPパルスを完全に受け付けないの】
「ビビってても仕方ねえ。行くぞ」
2人はマスク越しに頷き合った。崇は身をかがめ、建物の影へ音もなく消えた。かさばる防護スーツを着込んでいるとは思えない身のこなしだった。
さて――ここから先は、何があろうとアドリブで対処しなければならない。
腹をくくって、歩き始めた。さすがに怪訝な視線が四方から飛んできたが、表立ってとがめる者はいなさそうだった。裕福そうな両親に手を引かれた小さな男の子が目を丸くしているので、手を振って見せた。
(あれだな……)
かなり広い屋上の、その大半をペントハウスが占めていた。白と銀を基調にした建物はほとんどがガラス張りで、シックな色合いの書棚やソファやグランドピアノに加え、ちらりと見えた居間には深紅のスポーツカーまで置かれていたのには驚いた。こんなところにどうやったら住めるのだろうと龍一はいぶかった。一億 五千万人ぐらい詐欺にひっかけたら可能だろうか。
ペントハウスの裏手に回り込むと、龍一はワゴンから黒光りする金属筒――単発式のグレネードランチャーを引っ張り出した。ケースから取り出した擲弾を装填し、ペントハウス上部の通風孔に向けて一発、撃った。軽い発射音とともに擲弾は飛び、 壁に当たって跳ね返る――ことなく、接着されたようにへばりついた。
擲弾が変形し、小さな四輪付きの脚部が展開、小型のドローンとなる。表面に粘性を持つ四輪を転がし、小さなマジックハンドで器用に通風孔のビスを外すと、奥に消えた。
「望月さん、仔豚が入った。頼むぜ」
電磁石を応用した解読機でロックを解除し、崇はペントハウスのさらに最上階に位置する社長室に足音もなく滑り込んだ。
「へん、これはなかなか……」
社長にふさわしい重厚なインテリア。染み一つ、髪の毛一本落ちていないベッドルーム。全面ガラス張りのフロアから下界を見下ろすと、地上を行き交う人や車がミニチュアにしか見えない。ここに女を連れ込んだりワイングラスを手に「独裁者ごっこ」ができるわけか、そりゃ病みつきになるわな、と考える。
デスク上のノートPCを起動させた。ログインの画面が出るが、すぐに警告音が鳴る。
「生意気に網膜識別かよ」舌打ちし、ハッキングツールを取り出そうとした瞬間、崇は耳を澄ませた。足音――誰か来る。
崇はソファの後ろに身を隠した。ドアが開く。部屋の主だろう、怪訝そうな顔でノートPCを覗き込んだ男の首筋に、金属筒を突きつける。
「動くな」
「……通報はしないよ、しないからさ、私の話を聞いてくれよ」
男は丸パンのような顔に満面の笑みを浮かべてみせた。恰幅のいい男だった。こいつが社長か。
「君の、いや君たちの噂は聞いているよ。ずいぶん荒っぽい方法で稼いでいるみたいじゃない。一度、聞いてみたかったんだよ。純粋な好奇心からさ」
「あんた、こそ泥に世間話をする趣味でもあるのか」
「ご謙遜を。ただのこそ泥なら最初からここに忍び込もうなんて考えないさ。ただでさえ敵の多い商売だからね、セキュリティに金をケチるとろくなことがない……」
振り向こうとした男の首により強く金属筒を押し付けた。男は顔をしかめたが、声は上げなかった。
「何でそんなに私らを目の敵にするのさ。まさか社会正義のためでもないでしょ?」
「聞いてどうする」
「うちを潰したって誰の得にもならないからさ。うちで扱ってるのは毒でも麻薬でもない。習慣性まったくなしの人畜無害な健康食品だもの。まあ……ちょっと効用は誇張したかな。金に困った博士や大学教授に頼んで、結構ハクつけてもらったし」
何がおかしいのか、男はくすくす笑う。
「そ りゃ体質に合わない人がごくたまーにいて、余計に持病がひどくなったって訴訟騒ぎになるけどさ、そんなの切りがないじゃない? 百万、二百万単位で売ってたらそれの一人一人に合わせた商品展開なんてほぼ不可能だしさ。かと言って薬効を弱くしたら効かないって文句言われるし。これでもパブリックイメージには 気を遣ってんだよ? 私らは儲かる、買った方もハッピーになる。それで何が悪いのさ?」
崇はやはり黙っていた。単に面倒臭かったからだが、男は首をかしげた。
「おっ と、君たちの悪口を言ってるわけじゃないんだ。君たちには確かに才能がある。確かに――実社会では活かしようのない、潰しの効かない才能だけどさ。それが ただ破壊のみに向けられているなんて、悲しくない? いっそうちで働きなよ。雇い主からいくら貰っているかは知らないけどさ、その十倍は約束……」
崇は黙って握りしめた金属筒のスイッチを入れた。紫色の火花がばちばちと音立てて飛び散った。男は喉からうがいをするような音を立て、泡を吹いて倒れた。
崇はマスクの内側で鼻を鳴らした。「請負仕事ならなおさら、ほいほい雇い主を替えられるもんかよ。それとも、年金と税金の還付でももらえるのか」
痙攣している男の瞼を無理やりこじ開ける。「ちょうどいい。『ルドヴィコ療法』の出番だな」
小型カメラに似た機器を目に当て、男の網膜をスキャン。ノートPCに向けると認証が完了し、正規の画面に切り替わる。
「侵入成功。仔豚、抽出作業は任せるぞ。俺にはもう一つ仕事があるからな」
崇はメモリスティックを取り出し、にんまりと笑いながらノートPCに挿入した。「お待たせしました、本日のスペシャルブレンドでございまーす」
「まーかせて」
指先でスペックスの位置を調整しながら夏姫は答えた。ついでに髪型も確かめる。ドローンを利用した精密作業には確かに視界の広いHUDの方が向いているのはわかっているが、あれはせっかくセットした髪が崩れるからあまり好きではないのだ。龍一は「邪魔になるんならポニーテールでいいじゃないか」と言うが、 お生憎様。今日はお団子にしたい気分なのよ。
彼女の視界には今、視界を共有しているドローンからの映像がリアルタイムで投影されている。目の高さは低く、周りの物体すべてが実際より大きく見える。小人の幽霊にでもなった気分、というところか。
目的の部屋に着いた。暗く、生身の人間ではほとんど身動きが取れないほど大型のサーバーが光を点滅させるサーバールーム。通風孔からドローンを落下させる。
【ところでそのトンカツに名前はあるのか?】
双眼のような複数のカメラを持ち、前方に開口部を大きく開け、短い脚の先の小さなタイヤで移動するドローンは確かに前世紀の「仔豚の蚊取り線香入れ」に見えないこともない。が、
【トンカツって呼ぶのやめてよね。せめてピーちゃんて呼んでよ】
【うるせぇ。豚足ぶつけんぞ】
年頃の女の子に何て言い草よ、と夏姫は憤然とする。龍一といい望月さんといい、どうも雅さに欠けるわね。
プロープを伸ばし、サーバーへの直接アクセスを開始する。
「侵入に成功。紳士淑女の皆様、入場のお時間です」
龍一が腐るのもわからなくはないわね、と夏姫は思う。だってこれじゃ人はただのドローン運搬人だもの。やっぱり犯罪って、計画している間が一番楽しいな。
【ほぉら、出てきた出てきた……うわっ、この株主の名前、見覚えがあるわ。『失業率の高さは仕事を選り好みする若者の自己責任』とか公言してる社会学者が、裏じゃ怪しげな健康グッズでぼろ儲けしてるんだ。ドン引きだわ……】
「そんなことより、ダウンロードはもっと速くなんねえのか?」
【私のせいじゃないわよ。望月さんのお祈りが足りないんでしょ】
小娘が、と崇は黙って舌を出す。タメ口どころか女教師みたいな口を聞きやがって。下の毛をむしってやったら少しは大人しくなるかな。
不意に、ズボンの裾を倒れていた男がわななく手で掴んだ。「ふざけんなよ……何が憎くて、俺たちの商売を邪魔しやがる……」
「寝てろ!」
時価何百万は下らなそうな宋代の壺を抱え上げ、頭に叩きつける。壺は木っ端微塵に砕け散り、今度こそ物も言わず男は失神した。
「てめえこそ、人の仕事を邪魔すんなよ。……さて、そろそろ逃げるか……」
だが次の瞬間――大音響とともに、耳障りなサイレンが鳴り始めた。倒れ伏した男の手に小さな装置が握られているのに気づく。……パニックボタン!
「すまん、しくじった……!」
突然鳴り出したベルに、当たり前だが、談笑していた客たちがざわめき始めた。
【プランBはまあ仕方ないとして、実際どうするの? ダウンロード終了まで5分はかかるわよ】
【どうもこうもねえ、進めるしかないだろ。龍一、時間を稼げ】
「時間稼ぎって……何をすればいいんだ?」
【何でもいいんだよ、裸踊りでも。とにかくあと5分、いや3分でいい、騒ぎを起こせ】
気楽に言いやがって、とは思ったが、手をこまねいていても状況が悪化するだけであるのも確かだった。
ええくそ、と思い腹をくくった。一つだけ深呼吸し、大股でステージに向かって歩き出した。
周囲のざわめきが大きくなった。異様な姿の龍一に、今までマイクで体験談を話していた温厚そうな中年男性が目を瞬いている。傍らに立っていた体格の良い男が、龍一を見て不機嫌そうに顔を歪めた。
「何だね、君は? 今は大事な講義中なんだ。警備はどうした?」
男は赤ら顔をさらに赤くして大股で近寄ってきた。スキンヘッドにラグビー選手のような体格は、半端な与太者など物も言わず逃げ出しそうな迫力だ。
龍一は自分のことを口下手だと思っている。少なくとも大勢の前で口ごもらず滑らかに話す自信がない。加えて、自分の声を周囲の人間に聞かれたくはなかった。だから彼は黙って男の喉首を掴み、真上に持ち上げた。
男の喉から「ぐっ」という奇妙な音が漏れた。赤い顔がどす黒くなり、綺麗にそり上げられた額にびっしりと汗の玉が浮き始める。張り裂けんばかりに目が見開かれた。聴衆の不安げなざわめきが、はっきりとした驚愕のどよめきに変わる。決して小柄ではない男の身体が、じりじりと宙に浮き上がり始めたのだ。
「き、貴様、離せ……!」
言われた通り、龍一は手を放した。虚を突かれ、バランスを崩してよろめいた男の顎を、横からフック気味に拳で打ち抜いた。拳銃で眉間を撃ち抜かれたように、たくましい身体が膝からぐにゃりと曲がり、崩れ落ちた。打たれ強い人間はこの世に腐るほどいるが、脳を「揺らされて」平気でいられるのは、漫画かアクション映画に出てくるヒーローだけの特権だ。
マスクの中で軽く息を吐き――そこで初めて、周囲から注がれる視線に気づいた。着飾った男女の群れは口を手で覆うか、隣の者と顔を見合わせるか、「落ちはどうしたの?」と言わんばかりの顔をするか、のどれかだった。
少しやりすぎたかな、とは思ったが、これから始める作業を変更する必要は感じなかった。それにこれで何か言う必要もなくなったことに気づいた。
ワゴンを傾けると、中に詰まっていた発煙筒が数個、ごろごろと転がり出た。筒が一斉に白煙を噴き出し、屋上を瞬く間に覆い尽した。
今度こそ手の付けられない混乱が発生した。スプリンクラーが一斉に放水を始め、逃げ惑う男女の頭上にもうもうと霧雨を降らせた。
騒ぎを聞きつけて隣室から社員たちが駆けつけたが、我先にと逃げ出す男女の渦に巻き込まれてすぐ見えなくなった。訳も分からず喚きながら飛びかかってきた男の顔面に軽く裏拳を見舞い、鼻血が噴き出したところを突き飛ばした。
やれやれこれ以上派手な陽動もないなと思った。さて、後は脱出するだけだが――
エレベーターが開き、暴徒鎮圧装備に身を固めた警備員たちをダース単位で吐き出した。物陰に転がり込みながら龍一は思う――ゴジラの気持ちが何となくわかってきたな。
【95%……99%……終了。望月さん、ゲームセットよ!】
「ようし、こっちも終わりだ」
崇はメモリスティックを引き抜く。ノートPCの画面では、崇の注入した「スペシャルブレンド」――閉鎖的な社内ネットワークではより致命的な毒となるウィルスが猛威を振るい、あらゆるデータをコピーすると同時に各報道機関にメール添付の形で無差別に送り付けていた。思わずほくそ笑む。これで奴らの「ネットワーク」も「ビジネス」も、両方とも廃業だな。
中庭の騒ぎは、ここからでも聞き取れるほど大きくなっていた。銃声めいた破裂音まで連続して聞こえてくる。
「……まあ、確かに騒ぎを起こせとは言ったが、やりすぎじゃないかな……」
「動くな! 大人しくしろ!」
プラスチックの盾に身を隠し、電磁警棒を構えた警備員が殴りかかってくる。民間警備会社としては大した戦意の高さだ。それを素直に称賛できない自分の立場が残念なくらいだった。
(おっと……)
一撃をかわしはしたが、かさばる防護スーツで少々もたついた。着ぐるみを着ているようなものだ。あまりいつものように殴る蹴るはできそうにない。それなりの訓練とそれなりの装備を持った屈強な男たちは油断できる存在ではないし、防護スーツの絶縁機能を試す気にもなれなかった。
(仕方ねえ、ちょっとズルするか)
腰のポーチから黒い球体を取り出し、投げる。半壊した椅子に当たって止まった球体は二つに割れ、次の瞬間、けたたましく機関銃の連射音を大音量で響かせ始めた。この緊迫した状況で効果は抜群だった。殺到していた警備員たちが血相変えて床に伏せ、あるいは物陰に隠れる。
「せーの」
龍一は横倒しのテーブルを抱え上げ、構え、走り出した。30センチの歩幅さえあれば、彼の脚力は全力疾走に移れる。
態勢を立て直そうとしていた警備員が5、6人、悲鳴すら上げられず吹っ飛ぶ。素人相手ならともかく、プロには容赦しないのが龍一の流儀だった。それでメシ食ってんだろ、と思うからだ。
(早くしてくんないかな、望月さん……)
【そろそろ龍一も限界よ。数が多すぎるわ】
「わかってるって。にしても、あの人数じゃ助けに行ったって共倒れだ……」
見回した崇の目に鮮やかな色が飛び込む――居間の調度の中でも、一際目立つ深紅の車体。
「夏姫。車のキーをハッキングはできるか?」
【できるけど……でも、どうして?】
「まあ……ちょっとしたスタントをだな」
夏姫はそれだけで察したらしい。【……下手すると、天国へのひとっ飛びになるわよ】
「へっ、人生なんて使い捨てだろ。桐箱に入れて大事に大事に扱ったってな、死ぬ時は死ぬんだよ」
(くそっ、まだかよ……)
接近する警備員たちに横転したソファの影から麻酔ダーツを投げながら、龍一は辟易し始めていた。さすがに彼らも用心深く、プラスチック製の盾を構えながら距離を詰めてきている。重機関銃でもあれば突破はできるかも知れないが、高塔百合子は強力な火器の使用には極めて慎重な態度を取っていた。
さすがにこの人数をさばき切れるかどうか、龍一の自信が怪しくなってきた時、
「よう、待たせたな!」
流行の電気自動車とは比べ物にならない獰猛なエンジン音とともに、壁とガラス戸を破って深紅のポルシェが現れた。
蜘蛛の糸にすがるカンダタの気分だった。龍一は足にすがりつく警備員に蹴りを見舞い、必死でポルシェの運転席へ転がり込んだ。
「ずいぶんとごついのを見つけたな……」
「本当は戦車が欲しかったんだが、まあこいつで我慢するさ……金を腐るほど持っていても女と車とマンションぐらいしか使い道が思いつかない、日本の金持ちに感謝だ!」
【燃料あんまりないわね……少しでも助走距離を稼ぐから、目一杯加速するわよ!】
ここへ運び込まれた時の残りだろう。カーチェイスをするわけではない、好都合だ――そこまで考えて、龍一はもっと大事なことに気づいた。「夏姫……そう言えば君、運転免許は?」
【龍一はあるの?】
「いや」
何とも不吉なことに、うふっ、と明るい笑い声が帰ってきた。【安心して。私もよ】
人生最大のミスを冒したような気がしたが、降りるには遅すぎた。崇は目をつぶって深々とシートに後頭部を埋めた。「やっぱ、一度ケツ叩いてやんねえと駄目かな」
【2人ともシートベルト締めて! 舌噛まないでね!】
返事を待たず、ポルシェの全天候タイヤが白煙を上げるほどの勢いで空転し、次の瞬間、蹴飛ばされたように突進した。まるでロケット打ち上げのように凄まじいGが全身にかかり、龍一は思わず歯を食い縛った。さすがに崇も軽口を引っ込めている。
車が走るにはあまりにも狭い中庭へポルシェが躍り出る。テーブルを粉砕しBBQグリルを四散させ、逃げまどう警備員を追い散らしながら、屋上の縁に向かって走った。
落下防止用のフェンスを突き破る衝撃。十数メートルの高空を、撃ち出された砲弾のように深紅の車体が駆けた。おそらくこちらの屋上から立ち上る白煙に気づいたのだろう、向かいビルの窓際に鈴生りになっていた総合商社の社員たちが、わっと左右に逃げる。
轟音とともに龍一の意識は数秒間途切れた――彼はうっすらと「当分ジェットコースターには乗りたくない」と思っていた。
「……生きてるか?」
「幸か不幸か、あの世じゃなさそうだな」
シートベルトを外し膨らんだエアバッグから逃れ、歪んだドアを蹴飛ばして降り立つのは一苦労だった。廊下の端まで避難したビルの社員たちが、光る円盤から降りてきた緑色の宇宙人を見るような目で2人を見ている。
龍一はさっきまで自分がいたマンションを振り返った。マンションから鼻と口をハンカチで押さえた人々が逃げ出し、通行人にぶつかり、通りは大混乱になっていた。駆けつけたパトカーから次々に警官たちが降り立ち、警備員たちと入れろ入れないの押し問答を始めている。
まただ、と龍一は溜息を吐きたくなった。龍一は好きな小説の一節を思い出した。誰も殺さず傷つけもせず、居合わせた客たちが巧みな弁舌に聞き入っている隙に有り金を盗んでしまう銀行強盗たちの出てくる話だ――ショウは終わりです。テントを畳み、ピエロは衣装を脱ぎ、象は檻に入れ、サーカス団は別の町へ移動 します。
なぜ、自分たちはそうできないのだろう?
「行くぞ!」
走り出す瞬間、龍一はもう一度眼下を見下ろした。押し問答の結果だろう、よろけて姿勢を崩した警官の一人が何事か叫び、勢いづいた警官隊が静止を振り切って突入する光景が目に焼きついた。