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High Tech & Low Life

アイダカズキの(主に小説用)ブログです

黒の日輪【2】冥府にて

埃にぶ厚く覆われて停止したエスカレーターを、パンプスの規則正しい靴音がゆっくりと登っていく。周囲を照らす光は割れた天井から差し込む光と、足元を照らす懐中電灯のみ。

かつて大勢の利用客で賑わっていたはずの華やかなショッピングモールは暗闇に閉ざされ、まるで洞窟のようにひたすら暗く、空虚で広大な空間と化していた。懐中電灯の光に照らされた人影は、まるで夜行性の昆虫か動物のように、怯えを隠そうともせず物陰に消える。

大穴を開けられて内部の商品をぶちまけられている有名ブランドショップのシャッター。床に叩きつけられ、電子部品を残らず持ち去られたスマートフォンの残骸。天井近くまで積み上げられ、樹脂で固められて通路を塞いでいるフードショップの机と椅子。懐中電灯の光に導かれて、華奢なパンプスの規則正しい靴音がゆっくりと進む。

靴音が立ち止まった。懐中電灯を手に案内していた男がホールの一角を示す。案内されていた女は余裕に満ちた態度で頷きを返した。

昼なお暗い広大で空虚な空間の一角。断熱用マットを床に敷き詰めてアウトドア用のランタンを傍らに置き、うずくまるように本を読んでいた男が近づいてくる靴音に胡散臭そうな顔を上げる。表紙が見えた。『終わりなき平和』だった。

「誰だ、あんた?」もつれた髪と顔形も定かではない髭の中から発せられた声は、警戒というより面倒くさそうな調子だった。「まさか女刑事ってことはないよな。動きがとろすぎるし、別嬪すぎる」

「性差別と職業差別を同時に行うのは楽しそうですね。私には理解できない楽しさですが」

「あんた、フェミニストかよ?」男は鼻で笑った。

「元は」

「元?」

「私にとってのミニマムを追及していったら、そう呼ばれるようになっていただけです。今は、わかりません」

「ここにはたまにあんたみたいのが来るよ……ソーシャルカウンセラーだとかNPOだとか、とにかく何様かというくらいふんぞり返った馬鹿女がな。何か良いことをしたいと思ってるわりには、俺たちを見るなり毛穴を広げて跳んで逃げやがる。あんな不愉快な奴ら、触るのも真っ平だってのにな」

笑おうとして、男は咳き込んだ。

「あんたらには5メートルも進めば何かの餌食になりそうな界隈に思えるんだろうが、堅気の女でも転がそうもんなら根絶やしにされるのは目に見えてるし、わざわざ怪しい場所で怪しい取引なんかする必要もない。ここに巣食う奴らはもうちっと用心深いのさ、あんたらが期待するよりは」

女は柔らかな声で言った。「……人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である」

男は一瞬あっけに取られたが、やがて低い声で続けた。「ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい」

「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう……そこまでわかっていて、あなたはここにいるのですか?」

男は本を傍らに投げ出し、肩をすくめた。「ここのことを言っているのなら見当違いもいいところだ。ここはまだまだ人の国だよ。哀しいくらいにな」

エリジウムというにはずいぶん寂しい場所ですね」

「しょっちゅう盗まれるのが一番困るんだが、それもまあ、盗まれて困るものを置かなければいいだけの話だ。銃を持っているとか抜かすタフガイ気取りもいるが、ここじゃ質のいい弾薬の方が貴重なんだよ、作るのに本物の化学が必要だからな」

「……で、そろそろ本題に入ってくれないか。知的な会話が楽しみたいなら、オックスフォードかMITあたりの糞インテリをくわえこめよ」男はどんな寛大な女でも不愉快になるような無遠慮な目つきになった。「それともしゃぶりたくて来たのか?」

女は取り合わず言った。「……人を」

女は一枚の写真を取り出した。「人を探してほしいのです」

男は一瞥して、失笑した。「まさかこの痩せっぽちが、あんたの若いツバメってこたねえよな」

「知人の息子さん、とだけ言っておきます」

「それこそ探偵に頼めよ。こんな吹き溜まりに巣食う虫みたいな男じゃなくてな」

「探すだけではありません。探して、注ぎ込んでほしいのです。知識、技術、経験。あなたの持てるすべてを」

「断る」男は一言だけ言った。断ち切るような冷たい口調だった。「その『知識、経験、技術』がどんな代物か、知って言ってるのか?それをこのガキに教え込む行為の、どこに正しさがあるか言ってみろ。言えるもんならな」

「ここも人の国の範疇、と言いましたね。ではどこにいても同じでは?」

沈黙。暗闇のどこかから気のふれたような笑い声とすすり泣きが途切れ途切れに聞こえ、それになぜかアメリカ独立宣言の一節を、日本語で暗唱する声が混じる。――我らは団結して立ち上がり、分断されれば倒れるだろう。

長い間、男は黙っていた。女はスカートの裾を直しながら上品な仕草で傍らのマットに腰を下ろしたが、それにも気づかない様子だった。「……それでも、美しい言葉に従って人を殺すよりは、ましなんだよ」

「ここは静かなところですね。あなたがここにいたがる理由も、少しわかります」女は半ば目を閉じ、夢見るように言った。「私のためにもう一度美しい言葉を信じてほしい、とはいいません。それはあなたにとって侮辱でしかないから。美しい言葉に裏切られたあなたに」

暗闇の中、女の色素の薄い灰色に近い瞳が、はっきりと男を見ていた。「だからこう言いましょう。私はあなたを屈服させたものに、必ず勝ちます。私には、あなたが必要です。——望月崇」

「……そいつを探すことが、俺のためになるってのか」男は低い声で言った。

「彼も、あなたも、二人とも私に必要な人間です」

女は微笑み、白い手を差し伸べた。男はそれを壊れ物を扱うように取り、ひび割れた唇でそっと触れた。

何一つ持たず、誰の見送りもなく、男は女と共に、既にその役割を終えていた廃墟を後にした。緩やかな丘陵を夕焼けが照らしていた。風が吹き、女の栗色の髪を乱した。手でそれを押さえ、女は微笑みかけた。「たまには、外の空気も良いものでしょう?」男はゆっくりと頷いた。「ああ、悪くはないな」

 

「痛……っつう……」慣れない髭剃りで皮膚を切ってしまい、男は顔をしかめた。髭が伸びすぎていてシェーバーが使えなかったのだ。「たまに剃ると、剃刀負けがたまらんな……」

髪まで短く刈り込んだ自分の顔を鏡で見て、「胃の悪い木っ端役人みてえな面だな」と唇を歪める。バスローブを適当にひっかけ、浴室を出た。簡素だが趣味は悪くないビジネスホテルの一室。机の上には真新しいプリペイド式携帯、そして一枚の写真。

ソファに深々と腰かけ、写真を目の前にかざす。痩せた、顔色の悪い、服を着ているというより着られているような青白い少年が、それだけは印象的な、刺すような三白眼で男を見返していた。

「……なんだお前、俺と同類かよ」男は薄く笑い、写真を軽く弾いた。「間違えて人の世に生まれ落ちたってな顔してるぜ、けだもの坊っちゃん……」