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High Tech & Low Life

アイダカズキの(主に小説用)ブログです

黒の日輪【4】接触

小説 未真名市素描

この部屋にいると、重々しい柱時計の音がまるで祖父の鼓動のようだ、と彼女は思う。とうの昔にこの世を去った祖父の心臓の鼓動に。では私は、今もまだ祖父の胎内にいるということになるのだろうか。

指先で艶やかな黒檀のデスクを軽く撫でる。これだけではない。窓のカーテンも、資料棚も、壁も床も、すべて黒い。祖父のことは好きだったが、この部屋だけは昔から何だか怖かったことを覚えている。真夏でも室内の空気は冷たく静かで、祖父の膝に這いあがろうと近づく時でさえ、少し息を詰めた。

祖父の死後、彼女は自分の居室をここに決めた。手を加えるのは最低限にした。小物類まで黒に統一するのは無理だったが、それでさえ祖父の部屋にぽつりと残った針先ほどの小さな染みにしか見えなかった。それでいいと思った。祖父のよすがを完全に除去しようとは思わなかった。

卓上電話が軽やかな電子音を立てた。受話器を取ると、聞き覚えのある男の声が流れ出た。

【捉えました。市内へ向かっています】挨拶抜きで相手は要件を切り出した――彼女がそれでいい、と言ったからだ。【ここ数日、郊外のカプセルホテルを転々としていたようです。買い物も済ませ、いざピクニックへ出発、といったところですかね】

減らず口を我慢できない点に目をつぶれば、男は実に有能なリサーチャーだった。【ブツを手に入れた以上、奴にもう我慢する理由はないんでしょう。少しだけ顔を見ましたが、今にも何かしでかしそうなツラでした。やる気ですよ、奴は】

背筋に戦慄が走った。事態は予想以上に急転しつつある――それも最悪の方向へ。

「彼を抑えてください。できれば、市内へ入る前に」

【努力はします。ただ難しいでしょう。奴の性格からして無関係な人間を巻き込むことは極力避けるでしょうが。問題はその、閾値だ】

「お願いします」

【そうだ、奴の中学時代の担任と友人に会いました。後で送ります――興味深いですよ】通話は切れた。彼女は手の中の受話器を見つめた。なぜ自分がそんなものを持っているのかわからないような顔で。

受話器を元の位置に戻す、それだけの作業にひどく時間がかかった。震える手でそれを置いた瞬間――右肩に凄まじい激痛を感じた。身をよじりながら、ああまただ、と思った。何年も前に癒えたはずの古傷が発する、存在しないはずの痛み。祖父が死の間際、最後に自分に与えていったもの。

受身すら取れず、椅子から転げ落ちた。右肩が燃える。悲鳴すら上げられず、右手の指先だけが電流でも流されたようにびくびくと痙攣するのを歪んだ視界の端で捉えた。そして耳の奥で弾ける、祖父の凄まじい怒声。今際の怒声。『牝犬の息子と!淫売の娘が!そろって私をたばかったな!』

違います――違うんです、お祖父様――私はあなたを裏切ったことは一度もありません――今までも、そしてこれからも――声にならなかった。呻き声一つ上げられず、彼女は失神した。

「ご当主。……ご当主?」

ドアの外からの心配そうな声に、彼女は眼を開けた。返事をするために、渾身の力を振り絞らなければならなかった。「……ごめんなさい。少し、躓いただけです。心配してくれてありがとう」

声は躊躇いがちにドアのすぐ外に佇んでいたが、彼女がもう一度「大丈夫です」と言うと、ゆっくりとその場を離れた。彼女はよじ登るようにして椅子に這い上がった。全身が冷や汗にまみれ、指先はまだ酷く震えていたが、誰かを呼ぶ気にはならなかった。誰にも、自分の今の姿を見られたくなかった。

――呼吸を整え、目を見開いた時、卓上のホルダーに入れられた一枚の写真が目に入った。無意識の内に、手が伸びていた。指先でそっとなぞる。写真の中の、青白く痩せた、服に着られているような少年の顔を。

「……静かで穏やかな人生をあなたに歩んでほしい、それが私の偽らざる思いでした。でもそれは、あなたにとっては地獄でしかなかったのですか?」

答えがあるはずもない。写真を戻し、卓上の受話器を取る。指先の震えが止まっていることを確かめる。深夜にも関わらず、相手はワンコールで出た。

「私です。例の計画を実行します」

 

目的地まであと停留所二つ分の距離でその男は車内に乗り込んできた。短く刈った頭髪、着心地の良さそうな麻のスーツ、綺麗に磨かれた革靴。中肉中背の、どちらかと言えば目立たない外観の男。気軽そうな足取りに反し、靴音が一切聞こえない。一目で直感した――こいつは追跡者だ。

これから行うことに逡巡を覚えなかったわけではない。余計な「紐」がくっついていることを思えば尚更だ。だが考えてみれば、行動を中断したからと言ってこの男が自分を見逃すわけでもない。希少な機会を逃し、追跡者を振り切る手間だけが残る。半月近い準備の結果としては面白くないオチだ。

むしろ――少し、口元を緩めた。これからやることの一切合財をあいつに見てもらうのも一興かも知れない。さぞかし度肝を抜かれるだろう。その顔をじっくり見られないのが残念なくらいだ。

(……何を考えている?)

降車ドア近くの座席に腰を下ろした「彼」の背中を見て、男はいぶかしんだ。ぼさぼさの頭髪と、お洒落とはほど遠いモスグリーンのハーフコート。周囲より頭一つ高い上背と暗い目つき以外、ぼんやりと手元の携帯をいじっている様子はそのへんの若者と変わらなかった。

ひどく眠そうな目つきのサラリーマン、散歩中らしき杖をついた老婆、単語帳を手にした小テストの準備に余念のない中学生たち。いつもの朝の通勤バスの光景だった。「彼」は立ち上がり、立っていた老婆に席を譲ろうとした。男は呆れた――模範的な市民じゃねえか。

もごもごと聞き取りにくい声で礼を言って座る老婆に「彼」は軽く頭を下げ、立ったまま携帯の画面に目を落とした。バスが止まり、停留所から乗客たちが乗り込んでくる。市内まであと停留所一つ分、数百メートルの距離。

ずいぶんと見事に猫かぶったもんだ、男は口中で呟く。その若さで大した自制心だよ。俺がお前ぐらいの頃を思えば尚更だ。だがそれで、お前が得られたものは何だ?世間一般がお前に下した評価はどうだ?それはお前にとって、相応しいと言えるものだったのか?

中学時代の教論の話――「ええ、あの子のことは良く覚えていますよ。大人しくて真面目で、少し陰気ではありましたけど、陰険ではありませんでした。口数は少ないけど、口を開く時は気の利いた冗談で受けを取っていたみたいですし......本も好きで、良く図書室で過ごしていました。『すばらしき新世界』を読んでいるのを見て、私がずいぶん難しい本を読むのね、と言うと、不思議そうな顔をされましたよ。全然難しくありません、すごく面白いですよ、って。だから私、あの子はきっと将来素晴らしい人物になるって思ってたんです」

元クラスメートの話――「あいつと同じクラスになったのは中3だったかな。入学したての頃はがりがりに痩せてたらしいけど、1年ぐらいですごい勢いで身体がでかくなり始めたみたいだ。周りはみんな怖がってたよ。話してみればいい奴だってすぐわかるのに。

身体を鍛えていたせいもあったんだろうな。鬼気迫る、って言ってもおおげさじゃないくらいだった。みんな噂してたよ、将来人でも殺すつもりなんじゃないかって。本人は真にも受けてなかったけどな。

女の子とは……付き合っていた子は何人かいたみたいだけど、長続きはしなかったみたいだ。本人に言わせれば別れ際に『人の魂がない』ってさんざん罵られたってさ。中学生のガキが魂って何だよ、って思わず笑っちまったけどな。あいつも苦笑いはしてたよ。

いい奴には違いなかったから、きっと俺たちなんぞとは比べ物にならないくらい大物になるんだって思ってたよ。実際、そうなるはずだったんだ……あんな事件さえ起きなければ」

いい子、いい奴、いい生徒――思い出しながら男は呟く。そう、お前を知る奴は皆口をそろえる。あんな事件さえ起きなければ、ってな。だが俺はそうは思わない。あの事件が起きなくとも、お前の人生は別の形で破綻していたろうよ。さぞかし窮屈だったろう、真人間のふりをして生きるのは?

お前の犯した本当の罪を教えてやろうか。人を死なせたことか?確かに罪は罪だが、ありふれた罪でしかない。お前の本当の罪はな――けだものの子の分際で、人の世に生まれ落ちたけだものの子の分際で、真っ当な人間として生きようとしたことだ。

しかしどうしたものかな、男は考える。市内に入る前に抑えてほしいというのが彼女の依頼だが、見たところ今の奴は大人しい。このまま市内に入り、人気のない場所まで尾行してから――そこまで考えて気づいた。バスが停まっている。

「変だなあ、この道こんなに混むっけ?」「これじゃ着いてもHRぎりぎりだよ……」中学生たちの会話が耳に入る。嫌な予感。朝の渋滞など珍しくもないが、このタイミングで――ひどく胸騒ぎがする。

 

「おい、さっきから全然動かねえぞ!どうなってやがる?」車の後部座席でイゴール・ザトヴォルスキーは苛立った声を上げた。今回の「商談」は最近だぶつき気味だった大量のカラシニコフ自動小銃をさばけるまたとない機会なのだ。

「すみませんボス、どうも今日に限って渋滞が……」

「すみませんで済むか!今回の相手は時間にうるせえんだ、取引が流れっちまう!」運転手の言い訳にさらに腹を立て、眼前のシートを蹴りつけた。「まったく何てえ国だ!夏は暑くて湿ってる、冬は寒くて湿ってる。おまけに渋滞まで酷いのかよ!」

 

【車が動きます。おつかまりください】のろのろ動き出した車体に乗客たちが溜め息をつく。嫌な予感が膨れ上がった――そしてそれは的中した。次の瞬間、凄まじい衝撃が車体を襲った。耳障りなブレーキ音。悲鳴を上げてある者は床に転げ、ある者は手近な柱にしがみつく。

混乱の中、「彼」だけが的確に動いていた。首のスカーフを口元まで引き上げ、自然な動きでコートのポケットに手を滑り込ませる。抜き出した手には手品のようにスプレー缶が握られていた。ほとんど一挙動で、車内の監視カメラに塗料を吹き付ける。続く動きで、もう非常用開閉レバーのカバーを叩き割り、ぐいと引いていた。

【お客様、危険です!外に出ないでください!】運転手の悲鳴に近い警告を無視し、「彼」はドアを蹴破るようにして車外に飛び出していた。周囲では似たような大混乱が巻き起こっていた。周囲で車同士が玉突きに衝突し、路上の信号機が出鱈目に明滅している。

「……嘘だろ!?」自分で目にしてなお男は信じられなかった。「彼」はゴミ収集箱に突っ込んで停まった一台の車のウィンドウに、水筒に入れた何かの液体をぶちまけたところだった。白濁したガラスに容赦なくボルトニッパーの先端を突き入れる。おそらく防弾仕様のガラスが、容易くはぜ割れた。

ライフル弾さえ弾き返す防弾ガラスが粉々に割れ、鋼鉄の嘴のようなボルトニッパーの先端が鼻先まで突き入れられる。悲鳴を上げたイゴールは、黒い手袋に覆われた巨大な掌が自分の顔面に迫ってくるのを見て、もっと大きな悲鳴を上げた。

「彼」がまるで犬のリードでも引っ張るように、太り気味の男のネクタイを荒々しくつかんで割れた車の窓から引きずり出すのが見えた。馬鹿みたいに口を開けるしかなかった。あいつ、よりによってここでおっぱじめやがった……!

バスは陸橋の上で停車していた。しかし、ここからどうやって逃げるつもりだ?とっくに通報はされているだろうし、この渋滞では車で逃げようが――思った時、男の耳が近づいてくる轟音を捉えた。腹の底に響く貨物列車の走行音。まさか!

悪い予感はまたも的中した。速度を落としつつある貨物列車の屋根へ、「彼」は手摺近くまで引きずってきた男を無造作に蹴落とし、自らも身を投げた。

あいつがチェックしていたのは「目標」の現在地と、貨物列車の通過時刻か――怒声と泣き声が飛び交う中、男は携帯を耳に当てる。ワンコールで相手は出た。

「……逃がしました」

 

――ザトヴォルスキーはゆっくりと目を開け、まぶしさにすぐ目を閉じた。強い光が顔面に当てられ、まともに目を開けていられない。身をよじろうとしたが、ワイヤーのようなもので縛られてびくとも動けない。全身がずきずき痛むのに、身動き一つできない。

「どこだ、ここは......?おい、ほどいてくれよ……大事な商談があるんだ……」

傍らに人の気配が立った。顔は見えなくとも、その眼差しがこちらに注がれているのがわかった。

「諦めた方がいいな。車の事故なら先方も文句は言わないさ」やや硬いが、正確なロシア語。若い声ということぐらいしかわからない。

「いくつか聞きたいことがあるんだ、ザトヴォルスキーさん。安心しろ、全部喋るまで絶対に殺さないから」