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High Tech & Low Life

アイダカズキの(主に小説用)ブログです

黒の日輪【8】月光

小説 未真名市素描

男はハンドルを握りながら、後部座席でタオルを目に当てて横たわっている少年の様子をバックミラーでうかがった。傷ついた獣のように時々身じろぎするだけでほとんど動かない。結構、そのままでいてくれよ、と内心呟く。暴れ出さないだけでも上出来だ。

「……空気の匂いが変わったな。市外へ出たのか?」

「いい鼻してやがんな。本当にけだもの並みだ」正直なところ、舌を巻いた。「なあ、俺がこのまま警察署に向かったらどうするつもりだったんだ?」

「どうもしない。あんたごときにしてやられるようなら、俺の運もそれまでだ」

覚悟完了済みってか」

ハンドルを繰りながら、話し始めた。どのみち隠すようなことでもない。「お前の中学の担任に会った。心配していたぞ。ならず者人生に精を出すつもりだったんだろうが、残念だったな」

「あの倉庫を突きとめたのもそれか」

「それはもうちょい手が込んでいる。お前の接触した〈業者〉、夜逃げした倉庫のオーナー、襲撃された売人どもの拠点。その共通項目から絞り込んだ」

「道理でうなじのあたりに熱い視線を感じると思った。言ってくれれば触らせてやったのに」

「お前、冗談が言えるのかよ?」意外だった——呆気に取られ、思わず噴き出した。

「会わせたい人がいるって言ったな」溜め息。「仕方ないな。あんたには借りができたし、そいつに会わないことには話が進みそうにない」

「わかってるじゃないか」

車は倉庫街を抜け、郊外を走っていた——遠くに街の光、遥か上空にはやや歪んだ満月。

「それに、お前に熱い視線を送っているのはどうやら他にもいるらしいな」

「他?」

「あの倉庫を張ってた連中だよ。お前と殴り合ったあの全身タイツ以外にも、堅気には見えない奴らが後方で控えていた」

「マフィアの手先にしちゃ、ずいぶん毛色の違う連中だと思ったが」

「隙を見てそいつらの顔を照合してみた。皮肉なもんだな、お前より簡単に身元が割れたよ。ハ=モサッド・レ=モディイン・ウ=レ=タフキディム・メユハディム」

「……モサドイスラエルの情報機関か?」

「腰を抜かすところだったよ。何やらかしたら、そんな奴らのターゲットになるんだ」

「知らん。俺は鉤十字の旗を振ったことはないし、爺さんの名前はアイヒマンじゃない」

男は喉の奥で笑った。「心当たりはありません、か?あのなあ、自業自得でない悲劇なんてこの世にあるもんかよ。自分に関わりの一切ない不幸が次から次へと襲ってきたら、そりゃ悲劇どころか、抱腹絶倒のどたばた喜劇だ」

「だが、少なくともお前の行動がこの世の誰かさんの気に障ったのは確かじゃないか……洒落や酔狂で動くほど、モサドは暇じゃねえだろう」答えはない。「お前の経歴はだいぶわかってきた。何も知らなかった時よりだいぶな。だがお前のことは、結局ほとんどわからないままだ。何をするつもりだ?」

沈黙。

「……武器の密売人を片っ端から襲い、泣く子も黙るハ=モサッドを敵に回して、お前の行きつく先はどこなんだ?」

「……行きたい場所があるわけでもない。欲しいものがあるわけでもない。ただ、他にやることを思いつかないんだ」

「復讐か。やめとけ」男は吐き捨てた。「自殺にしたってもうちったあましな方法があるだろうが。連中が持ってるのは本物の銃弾が飛び出す本物のおもちゃなんだぞ。銃で撃たれた傷、見たことあるか?ひどいもんだぞ」

「……あの人が言っていた。銃には致命的な弱点があるって」

「弱点?弾切れや故障のことか?」

「違う。引き金を引かない限り、絶対に相手を殺せないことだ」バックミラーの中でタオルがずれ、涙と目脂を拭い去った目がわずかに覗いていた。異様に澄んだ透明な瞳。けだものの目だ、と思った。「その前に動けば殺せる、生かすも殺すも思いのままにできる、って」

「……滅茶苦茶言いやがる。お前はともかく、この世の大抵の人間は植芝盛平じゃないんだぞ」

「理屈は合ってるだろう?」

確かに合っているが、そりゃ狂人の理屈だ、と言いそうになった。「それで死んだら?」

「死んだことがないからわからない」

思わずハンドルを平手で叩いた。「わかった。お前はもう、今後銃弾を避けるな。撃った弾を避けるより撃たせない方法を考えろ。お前をぶっ殺しに誰かがやってきたら、お茶でも飲んでお帰り願え」何かを言おうと口を開きかけたところで間髪入れず続けた。「自惚れるな。お前が動くより速く撃つ奴なんてこの世にはごまんといる」

痛いところを突かれたのか、彼は黙り込んだ。しばらく沈黙が続いた。ご機嫌を損ねたかな、と思い始めた時、ぽつりと口を開いた。「あの人が俺に残したのは、それだけなんだ」「あんまりいい趣味には思えねえけどな。どんな強い奴だって撃たれりゃ死ぬし、銃弾の避け方なんてまともな発想の産物じゃねえ」

「わかってる。俺もあの人も、世間一般で言う真っ当な人間じゃない」沈黙があった。言葉を思いつかなくて途方に暮れているような沈黙だった。「それでも……俺が何もしなかったら、あの人が本当に死ぬような気がして……」

ふっと言葉が途切れた。糸が切れたように、彼は眠り込んでいた。顔からタオルが滑り落ち、わずかに傾げた彼の目に光る粒が浮いているのを見て、男は溜め息を吐いた。「……子供が」

不意に、自分の中に生じた感情に戸惑った。腹の底から込み上げるもの、どす黒い粘つくような怒り――彼の魂の一部を永遠にもぎ取ったまま、この世から去った男への、やり場のない怒りと嫉妬だった。

 

 やがて男は一軒の家の前で車を止めた。目もくらむ豪邸ではないが、立派な鉄の門扉と広い庭を備えたレンガ造りの屋敷。カメラで確認したのか、意外に滑らかに鉄の門が開いていく。

「……着いたぞ。降りろ」男が後部座席のドアを開けると、ふらつきながらも大人しく降りてきた。気が変わる心配はなさそうだ。彼は首を巡らし、周囲を物珍しそうに眺め回した。

ぶるっと彼は巨体を震わせた。「寒いな。ここは……ずいぶん高地まで登ってきたみたいだが?」

「避暑地だよ。アジアやアフリカの旦那様向けのな」

「……なるほど、連れてこられた理由がだいぶわかったよ」

「住んでるのは一山当てたトレーダーやIT長者、それにお忍びで来てる各国高級官僚—―ちょっとした治外法権地帯だ。どこの国の情報機関だろうと、ここで揉め事を起こしたらただじゃ済まない。身を隠すにはもってこいの場所だ。まあ、当面はな」

「なるほど」

「道を外れるなよ。ここの住民はミリセクと契約してるからな。連中はまずお前を撃ってから身元の確認をするだろうよ」

「俺の知る日本とはずいぶん違う法律で動いている界隈みたいだな」

「ヘイト団体がどんだけ金切り声を上げようと、国内企業の海外移転外資系資本の流入も、性的マイノリティの権利拡大も止められやしねえ。誰かの言った通りだよ、現実は常に正しい、ってな……」饒舌な自分に気づき、首を振る。

しばらく黙って二人は歩く。すでに深夜を過ぎていたが、月明かりのおかげで足元は明るい。

「お前が寝ている間に電話した。起きて待っているとよ」

「この時間にか。あんたは休まなくていいのか?ずっと運転していたのに」

「おい、俺よりもっと他のことに気を使えよ。ま、茶の一杯は出してくれるだろうさ」

小奇麗に整えられた中庭を通り抜け、二人はドアを開けた。照明は輝度を落とされ、精緻な細工のステンドグラスを通して月光のみが玄関ホールを照らしている。

「どうした?」

彼の視線が、正面に飾られた絵画で止まっている。白い衣装を着た女が、獣ともごろつきともつかない生き物の毛髪を捉えてねじふせている絵。

「あの絵……見覚えがある」

「何だと?」

「俺は……あの絵を見たことがあるんだ。まだずっと……小さい頃に」

 

「思い出しましたか?あなたがまだずっと小さい時、私がもっと若かった時、ここに来た時のことを」

吹き抜けになった屋敷の2階、ほっそりとした女の影が立っていた。女の足が階段をゆっくりと降り始める。一段、また一段。喪服にも似た黒一色のドレス、斜めに裁断されたスカートから覗く白い足が、優雅に、それでいて見せつけるように、ゆっくりと降りてくる。

ちょっとばかり演出が過ぎませんかね、お姫様――見とれつつも崇はそう思ったが、隣に立つ少年は揶揄するどころの様子ではなかった。彼の目は、階段を下りてくる一人の女のみを見つめていた。階段を降り切った女の、色素の薄い灰色の瞳が彼を正面から見つめる。

「よく来てくれました。相良龍一」

百合子さん、と彼は呟いたようだったが、それは傍らの男にすら聞こえないような声だった。あるいは本当に、何も言わなかったのかも知れない。