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High Tech & Low Life

アイダカズキの(主に小説用)ブログです

黒の日輪【エピローグ】光に満ちた、暗黒の世界

シャワーから迸る湯が肌の上を滴り落ちていく。その感触に溜まりに溜まった疲労が流れていくような気分になっていた彼女は、肩のあたりに覚えた鈍痛に思わず顔をしかめた。無理もない――見下ろすと、まるで腐った果実のような赤黒い大痣が生じている。あの男――〈蛇〉に体当たりされた箇所だ。忌々しい――思わず唇を歪める。

なぜあの時引き金を引けなかったのか――あの哀れなイゴール・ザトヴォルスキーには躊躇なく引けたはずのそれを、なぜあの男には引けなかったのか。引けばそれで彼女の任務は終わっていたものを、なぜ。それはあの時以来彼女が捉われ、そしてこれからも幾度となく問い返すことになるだろう、答えのない自問だった。

バスローブを羽織ってホテルの一室に戻ると、ほぼ同時に卓上の電子機器が呼び出し音を鳴らし始めた。携帯ゲーム機に偽装されているが、衛星経由での秘匿回線により盗聴の極めて困難な軍用無線機だ。あわてて起動させる。

【失態だったな】少々のタイムラグを経て、ややかすれ気味の男の声が聴こえた。日本との時差は6時間差。かの地ではちょうど夕方だろうか。

「……申し訳ありません、おじ……いえ、局長」

【やむを得まい。必要条件を満たしているというだけで、経験の浅い君を送り込んだ私にも責任はある】

男の声は平坦だったが、その内容は明らかに自分を気遣ってのものだった。それはかえって彼女を惨めな気持ちにさせた。

「理由はどうあれ、私は失敗しました。その……」

【帰還はない。君にはまだやってもらうことがある。それに〈確保〉の成否はもう急務ではなくなった】

「え……?」

 【〈確保〉から〈監視〉に指示が切り替わったのだ。むしろそちらの方が、キミの得意分野かも知れんな】

呆れるのを通して笑い出してしまうなど、年若い彼女の人生にはそうそうない経験だった。

「普通は逆じゃありませんこと?それとも、最近は殴り倒しておいてから挨拶するのがモサドの流儀なのですか?」

【状況が変わったのだ。〈蛇〉は高塔百合子の庇護下に入った。少なくとも、これまでとは違う慎重なアプローチが要求されることは確かだ】

「それはわかりますが……」

【いいか、〈蛇〉は中東・ヨーロッパ経由での〈ルート〉のみを確実に狙い撃ちしている。一切の企業・犯罪組織・政府機関の支援を受けることなく。それは我々の保安体制に何らかの瑕疵があることを意味する。何としてもそれを探り出さなければならない……イラクから米軍が撤退し、周辺一帯でのアメリカの支援が望めなくなりつつある現状では特にだ】

「〈蛇〉とは何者なのですか?あらゆる種類の政治団体との接触、なし。犯罪歴および精神病歴なし。あるとすれば……過去の過失致死、一件」アメリカ人でもないのに思わず両手を広げそうになる。「要するに彼は何者でもないんです。誰なのですか?」

【それを探り出すのが君の任務だ】

ヒズボラでもアルカイダでも、ネオナチでもない18歳の少年が何者なのか、をですか」

言ってから彼女は自分の失言に気づき、身を強張らせた。局長――彼女の伯父は家族の反対を振り切ってドイツ人のエンジニアと結婚した彼女の母を未だに許していない。物心ついた時からアウシュビッツに送られた曽祖父母が返ってこなかった話を一族郎党から聞かされて育ったのでは無理もないが。

だが叱責の代わりに、回線の向こうから伝わってきたのは沈黙のみだった。ややあって答えがあった。

【彼は、我らと永遠に敵対する者だ。そういうことになっている】

「あの少年が……?」

【今はそれだけしか言えない。追って指示する】

通話は切れた。

彼女はソファにもたれ、しばし黙考する。何らかの𠮟責は覚悟していたが、このような決着の仕方は予想の外ではあった。わけのわからない任務だとは思っていたが、中でもわからないのは伯父――局長の態度だった。失敗と言われても言い訳できない結果の割りには、あまりにも淡々としすぎてはいないだろうか――まるで初めから予想していたように。

彼は任務の成功を望んでいないのではないのか?あるいは、彼を含むモサド首脳部の幾人かは。

彼女は呆然とした。自分の抜擢された理由が任務を失敗させるためであるというのは身震いするような惨めさがあるが、そう考えれば理解不能の任務も、やけに薄い後方支援も説明がつく。暗殺任務に特化した〈資産〉に、モサドは不足していない。それこそ自分のようなセミプロの出番はないはずだ。彼ないし彼女はイゴールもろとも〈蛇〉をやすやすと殺し、今ごろは国外へ脱出しているだろう。

物入れから一枚の写真を取り出し、目の前にかざす。〈蛇〉と呼ばれた少年の写真。彼女――数か月前までベルリン工科大学学生であった、現モサド臨時デイタッチメント、エーディト・シュワルブは呟く。「……それで結局、あなたは何者なの、相良龍一?」

 

一部の隙もなくスーツを着こなした青年は、階段を昇ったところで主の部屋のドアが半開きになり熱に浮かされた子供の落書きのようなメモ用紙が何十枚と散乱している様に深々と溜め息を吐いた。「お嬢様。そろそろ出発の時間です。お嬢様?」

「うるさいわねえ、わかってるわよ」ドアが開き、明るめの髪を強引にヘアバンドでまとめたジャージ姿の少女が、不機嫌そうな顔を覗かせた。「今いいところなのに……スパコンと私のワークステーションクラウド上での同期がどれだけ慎重を要するかわかる?」

「今は後片付けとご出発の準備にその慎重さを割いてください。どうぞお早く」「ちぇっ、滝川ってばお母様より躾にうるさいわね」

「そのお母様からのお頼みですから」

はいはいわかりましたわよおばあちゃま、と少女はぶつぶつ言いながら室内に引っ込む。

「滝川、そこにいる?」

「お嬢様がお支度を終えるまでは離れられませんよ」

「お願いしたいことがあるの。今日から車での送迎コースを少し変えてくれない?」

「は……」

「難しい?」

「いえ、テロや営利誘拐対策に送迎コースを変えるのはむしろ危機管理専門家からも推奨されています。ただ、お嬢様の方からそれを言い出すとは思いませんでしたので。失礼ですが、正直意外で」

「ちょっと思いついたことがあるの。そのうち話すわ。えっと、ブラどこにやったっけ……」

室内からにぎやかな――にぎやかすぎるほど調度品をがたつかせる音が響き始め、滝川は溜め息を堪えるのに苦労する。

「おまたせ!」柔らかそうな髪をふわりと波打たせ、原色を大胆に用いた目に鮮やかな花柄のスカートを翻した少女がトートバックを肩に部屋から躍り出てきた。「さあ早く行きましょ、先生を待たせちゃうわ!」誰のせいですか、と言いそうになるのを滝川はぐっと堪える。

「それで、お考えの送迎コースとは?時間やコースを固定するのは犯罪防止の観点からお勧めできかねますが」

「ううん、時間やコースはあんまり関係ないの。どちらかというと毎日続ける方が大切ね。頼める?」

「それは、お嬢様のお願いとあれば」

「ありがと。じゃ、詳しい説明は車内でするわね」

さあそうと決まれば善は急げよ、どう贔屓しても調子外れに聞こえる鼻歌を歌いながら先を歩く彼女に滝川は苦笑する。まあいいだろう。あの年頃の娘としては彼の主はわがままというものを口にしない性格ではあった(その分、扱いが難しいのも確かだが)。

意図はさっぱりわからないが、それが何かの気晴らしになるのであれば悪いことではない。そう思っている滝川は、それが彼女――瀬川夏姫と、そして自分の運命を大きく変えてしまうことをまだ知らない。

 

艶やかな黒檀のデスクの上に、崇はスーツケースを無造作に置いた。無惨に破壊された錠前と、こびりついた血痕が見えるようわざと向きを計算して置いたが、百合子は眉一つ動かさなかった。少しはびびれば可愛げがあるものを、とちらりと思う。

「あなたの評価は?」

「第一回目のOJTとしてはまずまずってところですか。今後、多少は磨きをかけてやる必要がありそうですが」崇はそこで彼にしては珍しい感慨深げな声を出した。「本当のところ、磨きをかける必要すらなさそうです。現時点では、あれ以上の逸材は望めないでしょう」

「あなたがそう評するなら、その通りなのでしょう」

百合子は軽く頷いたが、崇は応えず黙っていた。それから、低い声で言った。「俺としては、むしろあなたの方に決意を固めてほしいんですがね」

「私に、ですか」

「いずれ俺もあなたも、つけを払うことになるでしょう。ガキを犯罪に加担させたつけを」

百合子が逡巡したにしても、それは一瞬のことだった。「私もあなたも、いずれ地獄に落ちるでしょう。ただその前にやることが一つだけあるということです。最後まで着いてきてくだされば、失望だけはさせません。それは約束します」

「そこまでおっしゃるのであれば」崇は頭を下げた。俺もあなたもとっくに地獄にいると思っていましたがね、とは口に出さなかった。

 

「ここにおられる皆様であれば『究極の兵士』なるものを夢想されたことが一度でもあるかと思います」

拒否の声はなかったが、賛同の声もまたなかった。それに気を悪くした様子もなく、声は続ける。

「より強く、より速く、より遠くへ。一人で万軍を相手取る無敵の超人兵士。……そうご期待なさっている方がもしいらっしゃれば、申し訳ありませんというしかありません。『HW』の最大の利点は量産性と信頼性、それに生存性。ニーチェ的な『超人』とはほど遠い存在なのです」

反応をうかがうようなわずかな間。「......前置きは必要ありませんかな?」

「かまわん。続けたまえ」低いがよく通る声。「私も専門家と言うわけではない。それに順を追った説明の大切さは、皆さんもよくおわかりのことだろう」

「ありがとうございます。――対戦車兵器の発達が戦車の終焉をもたらさなかったように、ミサイルと火砲の発達が地上戦の終結を意味しなかったように。戦場のテクノロジーと情報の共有化もまた、歩兵の終焉を意味しませんでした。にも関わらず、歩兵は全ての兵科の中でもっとも脆弱な存在、『壊れ物としての人間』なのです。

正面火力の発達だけが歩兵の脅威ではありません。地雷と狙撃、毒ガスと爆風、瓦礫とガラス片、そして飢えと寒さと疲労。もっとも脆弱な存在に、敵地攻略には宿痾と言うべき地上戦の主体をゆだねざるを得ないというジレンマ。『HW』とはそれに対する一つの回答です」

顔を見なくとも胸を張る様子が伺えるような誇らしげな声。

「量産性、生存性、そして数さえそろえれば無条件に形成される情報共有能力。それがHybrid Warrior――幾らでも生産、交換、アップグレードが可能な、あらゆる軍隊の究極の夢、『人造の兵士』です」

言葉を切ると、待っていたかのように議論が溢れ出した。「需要があるのは陸軍だけではないな。海兵隊が真っ先に興味を示しそうだ」「特殊作戦軍はどうだろう。強烈なアレルギーを起こしかねないな。自分たちの存在意義を否定されるとばかりに」「わからんぞ。被害を免れない戦域への『撹乱因子』としての投入なら」「NBC兵器の汚染地域、あるいは高地や深海。宇宙空間戦闘。なるほど、需要はありそうだ」「生産ラインの完成には」「時間はかかるが、遠い将来ではない」「ではネックは『原料』のみか」「予算の問題もある」「世情が受け入れるのか。人型の、それも『殺すために生まれた』兵器など」

喧しい議論が一瞬にして静まった。中の一人が、軽く片手を上げて制したのだ。

「予算は、通る。いや、通させる。高級将校や上院議員たちも、自分の子息たちが前線へ送られずに済むとなれば反対する理由もないだろう。世論は――むろん熟考は必要だが、致命的な問題には至らないと思っている。倫理など時代とともに変わるものだ」

「では......研究は続行ということで?」

「当然だ。私たちが何かを諦めたことなど、ただの一度もありはしないのだ」

 

「......報告は以上です」

タブレットを手に報告を終えた金髪の若い女性がそう締めくくると、黙って聞いていた男は呟くように言った。「監視の目が張り付いているのなら結構。〈4騎士〉が投入可能になるまでにはまだ時間が要る。逸るな、と釘を刺しておけ」

「かしこまりました」

「難儀なことだ。イスラエルに巣食う狂信者どもは面白いように騙されてくれるが、動きを制御するのは骨だな」しわがれた聞き取りづらい声に、隠し切れない軽蔑の響きが混じる。「私の思い通りに動く者たちは、思慮が足りない。敬意を払われてしかるべき者は、私の思い通りには動かない」

「心痛、お察しします。彼らは所詮、鋏やハンマーと同じ道具です。過度なご期待はなさらない方が」

「当分は彼らに頼らなければならないのが嘆かわしい。私は彼らに相応しい無能な王なのかという発想は、面白いものではないな」

男は薄目を開けた。厚く垂れた瞼の隙間から、奇妙なほど美しい深緑の目が覗く。

「しばらくは監視に専念させろ。〈黙示録の竜〉は彼の地に降り立った。〈バビロンの大淫婦〉もほどなく姿を現すだろう。聖戦に備えよ」

「御心のままに。猊下

 

「…………東方の若き龍王の目覚めに呼応して、それと対になる存在もまた目を覚ます。英雄が千の顔を持つように、我もまた、二億六千万の顔を持つ」

明暗も、上下左右も、過去か未来なのかさえ不明な空間。

全身を白の装いで統一した青年は、まるで夢を見るような眼差しで呟いた。

瞼がちらりと開き、長い睫毛の下から洗った骨と同じ色の白目と、茶色の瞳が覗く。

「相良龍一、君を食べる日が楽しみだ」

薄桃色の唇の間から異様な色の、大人の二の腕ほどもある太く長い舌がずるりと飛び出した。唾液が飛び散り、白い襟元に汚らしい染みを作る。

「早くここまでおいで。待ち遠しいよ、最も昏い光の中に君が足を踏み入れる時が」

 

――そして幕は上がり、役者たちは舞台の中央に足を踏み出す。