犯罪工学の少女【1】半島から来た男
「来ないな......」
「ぼやくな。アポを取ってるわけじゃねえ」
室内に火の気はなく、床に敷いた毛布と懐の使い捨てカイロ以外身を温める術はない。
暖房も照明もない薄暗い部屋に二人が陣取ってから数時間。カーペットすらないフローリングの床は想像以上に冷たく、カイロがなかったらとっくに腹を下していただろう。調理のための火すら起こせず、二人はチョコレートバーをかじって耐えた。
「毛虱の話、もうしたっけ?」
「あんたがろくでもない場所で移された話だろ......そんなの聞かされて、俺にどんな顔をしろってんだよ」
「好きな顔をすればいいだろ。満面の笑顔でも眉根を寄せた切なげな顔でも」
「どれも億劫だよ」
頭もろくに上げられない以上、崇の愚にもつかない話以外に暇を潰す方法がなかったのも確かである。仕事とは言えいつまでこんな苦行が続くんだ、と龍一が本気で思い始めた頃、
「来たぜ」
ノートPCの画面を覗き込んでいた崇の目が鋭くなる。画面には、ゲート前に停まった一台の車、運転手が詰所の警備員に身分証を見せる様子が映されている。車はすぐに動いたが、警備員の緊張した様子ははっきりうかがえた。
「そいつの右耳を拡大しろ。そう、その角度からだ。……止めろ」
相良龍一は腹這いになったまま、望月崇の指示通りノートPCに接続したトラックボールを操作する。龍一がトラックボールを介して操作するノートPCは窓際の伸縮式マスト――バードウォッチング用の伸縮・首振り自在なモーター内蔵型だ――につながり、さらにその頂点に取りつけられたデジタルカメラの映像を映している。
車はすぐゲートの内側に滑り込んでいったが、龍一はウィンドウからちらりと覗いた男の顔を捉えることに成功していた。整えられた髪、色白で細面。あまりスタイリッシュと言えない黒縁の眼鏡。
「……警備員と同じハンズフリーの無線機を使ってる。軍や警備会社御用達の多重チャンネル方式、暗号化・電波妨害にも強いタイプだ」崇は溜め息をつき、ごろりと横に寝転がって天井の梁を眺めた。「最近やけに警戒レベルが上がってやがると思ったら、奴が絡んでやがったか」
「知った顔か?」
「キム・テシク。裏社会専門の、それもヤの字から信用を勝ち取っている奴なんてそういない。ましてマルスの息がかかったフロント企業のな」
「半島からの客人、か」
「『動乱』の時に祖国を捨ててきたんだろ。今にふさわしくない過去のある奴なんてこの街にはごろごろいる」
「この国でセキュリティ業の需要なんて……」言いかけて龍一は苦笑する。「愚問か」
「メリケンみたいに兵役経験者がごろごろいるわけでもないし、警官や自衛官でもないのに警備員へ大っぴらに飛び道具は持たせられないしな。そういう意味じゃ、この国はまだまだ平和よ」
龍一は画面を巻き戻し、男の顔を拡大した。色白。秀でた額と通った鼻筋。唇は薄く、彫りは深い。厄介かも知れない――理屈でなく、そう思う。「で、どうする。作戦は練り直しか?」
「馬鹿言うな。練り直しどころか、ゼロからだよ」
「......ってことは、今日の俺たちの苦労は……」
「無駄骨だな。高塔百合子は必要経費プラス足代ぐらい出すだろうが。不満だったら一人で殴りこんで来い。止めねえから」
「するもんかよ」
暗くなるのを待って、二人は監視に使った仮住居を撤収した。
麓に降りた頃にはすでに暗くなっていた。一日の安堵と疲労を顔に張り付けた人々が帰路に着いていた。自分たちの徒労に終わった、しかもとても人に言えない仕事を思い起こすと、羨ましくならなくもなかった。
「腹が減ったな……」さすがに崇も疲れたか、運転席で首をごきごきと鳴らしている。「ご当主への報告は後で俺がしておくから、飯でも食ってけよ」
「ありがとう。でも、この辺で下ろしてくれ」
「遠慮すんなよ。俺の懐具合なんか気にしてないだろうな?そういう気の遣われ方、かえって癇に障るぞ」
「別にそういうわけじゃ……」龍一は苦笑しかけて、ふと眉をひそめた。
「どうした?」
「気のせいかな……誰かに見られたような気がする」
――寸分の狂いもなく、キーを叩いていた細くしなやかな指が止まる。
「現在予測率50パーセント。ギャンブルなら立派だけど、『工学』と呼べるレベルにはほど遠い数字よね」
広々とした車の後部座席。彼女は指を唇に当て、笑みの形になっているのを確かめる。「星座や血液型占いとはわけが違うもの。『偶然』なんて言葉じゃ、あなただって納得できないでしょ?」