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High Tech & Low Life

アイダカズキの(主に小説用)ブログです

幕間・獣の肌

小説 幕間 未真名市素描

――隣室からはベッドの激しくきしむ音と、低く唸る獣にも似た男女の営みの声が漏れ聞こえてくる。全身を黒の装いで統一した男は顔色を変えることなく、ソファに腰かけて待ち続けた。

やがて隣室とのドアが開き、下着姿の女が転げ出てきた。泣き腫らした目のまま衣服を抱え、男には目もくれず廊下へ走り去る。

隣室から筋肉質の裸体を惜しげもなくさらした男がゆっくりと歩み出てきた。首筋から二の腕、背から尻全体までも覆い尽くした赤黒い鬼子母神の刺青が、汗でぬめ光っている。

「待たせて悪かったな」大して悪びれた様子もなく、刺青の男は腰を下ろした。「言ってくれれば、お前も混ぜてやったのに」

「遠慮しておく」

刺青の男は鼻を鳴らし、体温を感じさせない相手の白面を見やった。「そんな出来た面を持っていて女嫌いか。男が好きなら手配するぞ」

「そういうわけじゃない。女の肌も男の肌も、俺には熱すぎるだけだ」

「坊主でもあるまいし。女優だかモデルだかの卵なんて、一山いくらで手配してやるってのに。もっとも今日のは駄目だな。払うもん払った割りには愛想のない女だった」

「愛想を振りまく気にもならなかったんだろう。顔を殴ったな」

刺青の男はさも不当な言いがかりを聞いたような顔になった。「おい、そんな目で見るなよ。金は払ったんだ。合意の上だぜ」

「俺じゃなく、あの女に言え」

刺青の男は何かを言おうとして、止めた。「今日はお前からフェミニズムの講義を受けたい気分じゃないんだ。そいつを見ろ」

机の上に投げ出されたファイルを手に取り、めくる。しばらくして黒服の男はぽつりと言った。「一月につき3件のペースか。仕事熱心だな」

「もう億近い損害が出ている。穴埋めだけでも一苦労だ」

「防火服......催涙ガス......セキュリティカメラの画像は抹消済み。手慣れた奴らだ」

「それなりに屈強な奴を置いておいた所まで襲撃を食っている。度胸試しの殴り込みなんかとは毛色が違うし、腰抜けの市民団体には逆立ちしても出せない発想だ。犯行声明も――今のところ、出ていない」

刺青の男は内緒話をするように声を潜めた。「ここだけの話、中国人やロシア人もやられているらしい」

「無差別か。自殺にしてももう少しましな方法があるだろうに」

「去年の抗争以来、市警に介入の口実を与えないって点じゃ思惑は一致している。何より、チャイニーズやロシアンとはそれなりに『棲み分け』ができている。わざわざ揉め事を起こすとは考えにくい」

「話が見えてきた。こいつらを探せばいいんだな」

「探すだけじゃない。捕らえろ」刺青の男は断ち切るように言った。「お前はうちの『セキュリティ・コンサルタント』だ。あれだ……カウンターテロって奴だよ。口が利ける状態ならなおいい。泥を吐かせる必要があるからな」

「難しいぞ。用心している相手を炙り出すには、それなりの餌がいる」

「『不可能』ではないんだな?」

「ああ」

「ならいい。行け。これ以上やんちゃされたら、お前の信用にも関わるだろう」

黒服の男が立ち上がる。「このファイル、借りるぞ。少し準備する時間をくれ」

「頼むぞ。金も人も、必要なら幾らでも用意する」

「金はともかく、人はそれほど多く要らない。身軽な方が動きやすい」

黒服の男が踵を返す寸前、刺青の男は思い出したように言った。「今はゴキブリ駆除に専念しろ。一段落したら、お前にも例の計画に加わってもらう。合わせたい女がいるからな」

「女?」

「ああ。お前と同じ、半島から来た女だ」

犯罪工学の少女【2】狩る者たち

小説 未真名市素描

アカデメイア・コムリンク企画6課の藤松室長ですね? 少々お時間をいただけますか?」

「そうだが、何だね君は?」車に乗り込もうとしていたところを振り向いた男は、リムレスの眼鏡越しに望月崇へ胡乱そうな目を向けた。「君は雑誌記者か? 取材だったら受付を通してくれないか。こんな駐車場で話せることは何もない」

「いや、失礼――受付を通されるとそちらが困るんじゃないか、と愚考しましてね。ほらどうです、よく撮れてるでしょ?」

崇はこれみよがしに、二枚の指で挟んだ写真をひらりと振ってみせた。「お顔に似合わず、なかなかご立派な一物をお持ちじゃないですか。相手の坊や、どう見ても一番下の息子さんより年下ですよねえ。4つですか? それとも5つ?」

「き、貴様、それをどこで手に入れた……!」

肉体労働とは縁のなさそうな、どちらかと言えば色白で細面の顔が赤黒く染まる様は、なかなかに――少なくとも、背後の柱の陰に身を隠す相良龍一にとっては――見ものだった。

「金か? 金が目当てなのか? いくら欲しいんだ?」焦りを隠せない様子ながらも、徐々にだが駐車場監視カメラからの死角に移動しつつある。頭は悪くない――だがその回転の速さは崇にとっても、そして龍一にとっても、完全な空回りだった。この窮地はその回転速度こそがもたらしたものだというのに。

「何ならこの場で、1千万でも2千万でも小切手を切っていただきましょうか? ……やだなあ、そんなことしたら脅迫罪になっちまうじゃないですか。ただ……」

その言葉を合図に、龍一は男の背後から組み付いた。手首と肘の急所を的確に決めてしまえば、決して力では振りほどけない。力比べになったとしても、龍一の腕を跳ねのけられる者などそうはいない。

拘束バンドで手首を縛るまでに半秒。前方の崇が叫ぼうとした口にボールギャグを突っ込み固定するまでに半秒。リムレスの眼鏡を弾き飛ばし、上下の瞼を閉じられないようにクリップで固定してしまうのにもう半秒。

「ただこちらの箱を、ちっとの間、覗いているだけでいいんですよ」崇は悪戯っぽく笑いながら、呻いている男の顔面に金属製の箱を近づける。「大丈夫ですよ。目ん玉が乾かないように、後ろのでかい奴がちゃんと目薬を差してくれますからね。ほら、『時計じかけのオレンジ』って映画、ご存じでしょ?」

 

「お疲れ」

「言われた場所に転がしてきた。運が良けりゃお漏らしする前に助けてもらえるだろ」助手席に滑り込んだ龍一は肩をごきりと鳴らした。「じゃ俺、一仕事したからもう帰っていいか」

「馬鹿言ってんじゃねえ、ふん縛られて呻いているおっさんに目薬差すだけの誰にでもできる簡単なお仕事だろ」藤松から奪ったスマートフォンを操作していた崇は、思い出したように懐から写真を取り出し、龍一に投げた。「そうだ、もう使わないから、これでも見てほっこりしろよ」

「……何だこれ?」

「見ての通り、母豚のお乳を無心に吸う仔豚ちゃんたちだよ。『ハンマーを持つ者には、何でも釘に見える』んだ。覚えておけ」

「こんなもんでびびるなんて、あのおっさんも気の毒に……」

「良心なんざこれっぽっちも痛まねえな。インサイダー取引やら、指定暴力団の『黒い』投資ファンド転がしやらで、さんざん甘い汁を吸ってきたんだ。たまには地獄の水も舐めた方が、人生に張りが出るだろうさ」崇はうそぶいてから、指先でくるくる回していた灰色の作業帽を目深にかぶった。「さ、次だ。まったく貧乏暇なしだな」

 

龍一が高塔百合子の、そして崇の元で――決して職業斡旋サイトには乗らない類の仕事を――働き始めてから、数か月が経った。

偽の身分を通して家賃と税金と保険料を払い、偽名義のクレジットカードで「仕事」に必要な道具などを買う。時間がある時は筋トレに精を出し、休憩時間には崇から渡された資料――おそらくは警察の内部情報――を読む(勉強を嫌がるお尋ね者は長生きしねえぞ、というのが崇の言い分だった)。

仕事の際は足の付かない「飛ばしの」携帯で依頼を受け――血を見るかどうかは「仕事」の内容にもよる――僻地の不法投棄場で、あるいは廃車処理場で使った車や道具を処分して元の生活に戻る。やっていること自体は、龍一が個人でやってきたことと変わりはなかった――むしろあまりの変わり映えのなさに呆れ返ったほどだった。ただ信じられないほどの金と手間をかけて、同じことをやっているだけだ。詳細なターゲットのスケジュールと移動経路、襲撃する建物の詳細な図面、スパイ映画顔負けのガジェットの数々、そして龍一たちの「暴れた」後をいつの間にか綺麗に片付ける、顔のない者たち。本当にスパイ映画の主人公になった気分だ。

「金と手間。それが肝心なんじゃねえか」崇は笑った。「その二つがそろわなきゃ、テロ屋だってボヤ一つ起こせねえんだからな」

見知らぬ誰かをぶちのめして、泥を吐かせる。どこぞの会合に殴り込んで、その場にある金も物品もすべて奪う――そのような行為の積み重ねが、果たして俺の目的の何につながるというのだろう、という疑念がよぎらないでもなかった。だが百合子は約束した――あなたの追うものには私も関心があります。私の仕事を手伝うことへの報酬を、その調査という形で払うことではどうでしょう? もちろん、高塔家の力の及ぶ限り、という条件でですが。

龍一にとってはその言葉だけで充分だったのだ。

 

昼なお暗い立体駐車場の薄暗がり、天井からの照明に舞う埃の粒を何となく見ていた龍一は、階下からのエンジン音で我に返った。傍らの崇が懐からストップウォッチを取り出す。

「時間通りだ。警備室は俺が押さえる。三分以内に終わらせろ。行け」

龍一は頷き、足音もなく柱の陰から滑り出た。顔認証ソフトを欺くための特殊メイクで顔のあちこちが突っ張っている。子供騙しみたいな原理だが、通じるところには通じるらしい。この複合ビルのセキュリティカメラは設備の老朽化と人員の高齢化により、数世代前の顔認証システムを未だに更新できていない。崇がここを襲撃地点に選んだ理由の一つだ。

白のワンボックスカーがゆっくりと階下から昇ってきた。目玉のように光るヘッドライトが自分を照らす寸前、龍一は握り込んでいた金属の円盤を投擲した。

円盤はカーリングのように床を滑り、車の真下に達した瞬間、磁力で車の底部に張り付いた。何かが弾け割れるような鋭い帯電音、金属と樹脂が焦げる異臭。車はゆるゆると速度を落とし、傍らの柱に衝突して鈍い音を立てて停まった。

運転席が勢いよく開き、頭から血を流した革ジャン姿の若い男が転がり出てきた。何が起こっているか理解できていない様子だったが、それでも懐から何かを取り出そうとしている。刃物か、それとも飛び道具か――もちろん龍一は確かめる前に一歩で距離を詰め、二歩目で右肘を男の腹に深々と突き刺した。げっ、と呻いて身を折る男の後頭部に左肘を落とし、気絶させる。

 背後から崇が走り寄ってきた。片手のストップウォッチを停止させ、反対側の手で小型の拳銃を構える。これ見よがしに銃口を振った――龍一にではなく、車内の人間にだった。

後部座席のスライドドアが開き、現れたのはもつれた髪に無精髭、Tシャツ短パン姿の、龍一と同じくらい若い男だった。若いどころか、ほとんど少年だ。

銃口を見るとさすがにぎょっとしたが、やがて諦めたように両手をおざなりに上げてみせた。「あーあ、いつかはこういう日が来ると思ってたよ......ここを嗅ぎつけられたってことは、藤松さんの身柄も押さえたんだね。もう始末したの?」

「死んじゃいない。出社可能な状態じゃないけどな」崇は含み笑いした。「お前の頭を『処刑スタイル』でぶち抜くのは俺たちの仕事じゃない――少なくとも今はな。ただちょっとばかり、商売道具を見せてほしいんだが」

若い男は肩をすくめた。「いいよ。否応もないしね」

後部座席を覗き込むなり、崇は唸った。「こいつは......すごいな」

龍一も背後から車内を伺ったが、大型の違法改造らしき無線機と数台のモニター、それに空間を埋め尽くす意図不明な電子機器しか見えなかった。

「偽装してあるけど、表におっ立てたアンテナは指向性だな。移動ハッキング局かよ」崇の目がぎらぎらと輝いている。この男の癖で、面白そうな「おもちゃ」に興味を示さずにはいられないのだ。「道理で、アクセスポイントを突き止めるのに苦労したぜ」

「これで官庁街やオフィス街を走り回ると、けっこうおいしい情報が拾えるんだ。薬害が発覚して慌てふためいた製薬会社の重役連の揉み消し指示とか、IT企業の社長が女子社員に寄越す、ちょっと表沙汰にできない粘着気味のメールとかね」

まるで自分が褒められたように若い男は上機嫌だった。「いい歳したおっさんに限って、相当重要な新製品の発表スケジュールや製造施設みたいな機密データをネットでやり取りしてるから、それを引っこ抜くだけでも充分美味しいんだ。藤松さんもそれを使ってずいぶん荒稼ぎしたみたいだね。車代と機材費差し引いても安い買い物だって喜んでいたけど」

ぼろい商売だ、と崇は何がしかの感慨を覚えたような口調で言った。「欲しがる奴は山ほどいそうだな......しかし警察のサイバー犯罪対策課だって馬鹿じゃねえし、ハッキングは未成年でも重罪だぞ」

「その時はその時さ――修正パッチのやり方もろくに知らないおじさん社員とか、スマホのパスワードも店で買った時から替えてない馬鹿なOLとか、『踏み台』には事欠かないしね」

「この悪党がよ」

「銃を突きつける人に言われたくないけどね」

「銃ってこれのことかい?」

崇は引き金を引いた――水が男の顔面を直撃し、男は盛大にむせた。「ひどいな! 本物じゃなかったのか!」

「本物に見えたろ? なら充分だろうが」

崇と男はそろって笑い出し、龍一はだんだん腹が立ってきた――何だこいつら、初対面だってのに馴れ合いやがって。

男は顔をぬぐいながら、初めて龍一の方を見た。「そっちの強そうなお兄さんは、あまり面白くなさそうだね」

「ああ、何せ新入りでな。『遊ぶ』ことの高みと歓びを知らないんだ」

興味深そうな目で見られた。「確かに、ハッキングなんて趣味じゃなさそうだよね。どう見ても一人一殺のヒットマンタイプって顔だ」

余計なお世話だ、と思ったが口には出さなかった。

「それにしても君のさっきの動き、すごかったね。カポエラ? シラット? まさか八極拳じゃないよね?」

「詮索はそこまでにしときな」崇は藤松のスマートフォンを機器に接続してロックを外し、サーバー内のデータを吸い出し始めた。「さ、そろそろこっちの車に乗ってくれ。お前さんの『エスコート』も依頼の一環でな」

「まあ、そうだろうね......あ、その前に運び出せる機材は持って行っていいだろ、結構高......」

龍一は彼の言葉を待たず、取り出した水筒の蓋を開けて中身を機材の山にぶち撒けた。盛大な白煙が起こり、モニターとサーバー群が水飴のように溶け崩れた。

何とも言えない顔で見返す男に、龍一は肩をすくめてみせた。「悪い、手が滑った」

 

崇が車の速度を落とすと、若い男は怪訝そうな顔になった。「ここが僕の処刑場なのかい? 血で汚すのがもったいないくらい煌びやかな場所だけど」

「いんや、間違っちゃいないよ。ここが終点だよ、イルハングループ総帥の三男坊、イ・スンシンさん」

若い男の顔が緊張したのは崇の言葉か、それとも『ホテル・エスタンシア』の正面玄関から現れた黒服の男たちを目にしてか。黒服たちは靴音が聞こえてきそうな正確な歩調で車に近づき、若い男の前で恭しく頭を下げた。「お迎えに上がりました」

「さ、ネバーランドの探検はここで終わりだよ。帰った帰った」

若い男は笑おうとしたようだったが、実際に口から漏れたのは溜め息だった。「何だ、君たちも人が悪いなあ。全部父さんの掌の上かよ......」

「そう悲観したものでもない。こんな調査、探偵どころか警察だってぶるっちまって引き受けないからな。少なくとも御父上の肝は二、三度ほど冷えたと思うぜ」

「なあ、俺が言うのも何だが、ヤバい商売に首を突っ込まずに済むんならそれに越したことはないんじゃないのか」言おうか迷ったが、やはり龍一は言わずにいられなかった。「俺はこの仕事を恥じるつもりはないけど、誇りたくもないんだ」

「偉大すぎる父親を持てば、君の意見も変わるよ......」スンシンはどこか寂し気に笑った。終始飄然とした彼が初めて見せる顔だった。「とは言え、君の言ったことは検討しておくよ。ありがとう」

 

「あの坊ちゃん、これで懲りてくれるかな......?」

「どうかな。第一お前だって懲りないじゃないか。自覚がありゃいいってもんじゃねえぞ」

「言うなよ」龍一は顔をしかめた。いつになく感傷的になっていた。あの男の父親に対する屈託に触れたせいかも知れない。

「ま、これで本日の作業は終了だ。後片付けは勘弁してやるから、帰って休めよ」

「ありがとう、そうす......」緩みかけた背中が、龍一自身にもわからない理由で緊張した。

「どうした?」

「......まただ」

また、誰かが俺を見ている。

 

「......ようやく見つけた」

笑いの形に緩めた唇に、少女は指を当てた。「やっぱりあなたが絡むと、未来予測は困難になるみたい――でも、それはあなたの存在を抜きにして私の望みは実現不可能、ということよね」

ディスプレイの中の龍一に向け、少女は小首を傾げる。「私を知らない、私が知っているあなた。あなたはどこから来たの? 何をするためにこの街に現れたの?」

別ウィンドウの画像を指先で軽く弾く。履歴書のスキャンデータ。荒い粒子の、今よりもずっと痩せて顔色の悪い龍一の写真。

「ネットの海のどこを探しても落ちていない、あなたの『空白の一年』に何があったのかしら?」

幕間・新しい街で生きるということ

小説 幕間 未真名市素描

そもそもお前は、とハンドルを握りながら崇は口を開いた。「どうしてこの街に来たんだ?その何某さんとやらの死の原因がここにあると、どうやって突き止めた?」

「17年前からの逆算」それだけ言うのに、少し時間がかかった。「沖縄で戦術核を用いたテロが発生し、海の向こうで動乱が起きたあの年、膨大な人と金と物流の移動が生じた。堅気も――そうじゃない連中も。一夜で落ちぶれた奴も、一夜にして名を挙げた奴もいる。その中でも沖縄に拠点を置き、なおかつ17年前以降に勢力を増している指定暴力団体をピックアップした。大陸や半島からの武器や麻薬ルートが特に太い団体となると、さらに限られる。どれもここ数年で未真名市に進出していた。人も、金も......奴らが何だってこの街をパラダイスと思い込んだのか俺にはさっぱりわからないが、とにかく膨大な量が流れ込んでいる。後は、根気の問題だった」

横を見ると、崇の口が半開きになっていた。「どうした?」

「どうしたもこうしたもねえよ。それを一人で割り出しやがったのか......末恐ろしい餓鬼だ」

「一人じゃない。金も人も使った」

「金と人を使ったって、的外れじゃ意味がねえ。自分の命を懸けてよくやるよまったく......」

首をすくめた後で、崇は口調を改めた。「だがお前の荒っぽいやり口も、それはそれで効果的だったみたいだな。何しろいきなりイスラエルが出てきたんだぞ。宝くじで当たった河豚に当たるくらいの確率だろ」

「死にかけた上に大した手がかりも掴み損なったけどな」

「そう悲観したもんでもねえ。ただこれから先は――もう少し注意深くやる必要はある。もっとも、そりゃ明日以降の話だ」

落ちかけていた日が視界から遮られた。車が地下駐車場に滑り込んだのだ。

 

「今日からここに住め」

言われて、龍一は面食らった。車が着いた先は未真名市中央駅から徒歩十分ほど、五階建ての小奇麗なオートロック式マンションだった。クローゼットや作業用デスク、冷蔵庫など一通りの調度品は揃っている。床はフローリング。壁紙やカーテンの色も落ち着いた上品な色合いだ。

「俺、金ないよ」

「当面の生活費はご当主が負担するそうだ」そんなもの期待してない、と言わんばかりの答えだった。「家賃は口座引き落としにしてあるから管理人と顔を合わせる必要もない。市民税や健康保険税も同じ口座から差し引かれるが、余った金は好きに使っていい。どうせ何かと要りようになるからな」

帰り際に崇はマンションの鍵と免許証(もちろん偽造だ――言われなければわからないほどに精巧な)、真新しいスマートフォン、それにメモリースティックを手渡した。

「これは?」

「警察の捜査資料」崇は事もなげに言った。「出所は聞くなよ――俺もご当主も困る」

龍一は頷いた。崇にも百合子にも、迷惑をかける気はなかった。

龍一の顔をちらりと見て、崇は続けた。「いずれご当主はまたお前を呼び出すが、それまでお前が何をしようと自由だ。まあ言われるまでもなく、お前は遊び呆けるつもりもないだろうがな......」

崇が帰ってから、龍一は室内を改めて見回した。貸しコンテナや安物のビジネスホテルに泊まり慣れた身では、室内の調度は眩いばかりだった。クローゼットを開けるとラフな部屋着から冠婚葬祭のためのスーツ一揃い、男物の下着まで見つかった。おまけにサイズまでぴったりだった。まさか百合子が直接手配したわけでもないだろうが、何となく顔が赤くなってしまった。

デスクの上の端末を立ち上げ、渡されたメモリースティックを読み込ませる。電書化された供述書、音声や動画ファイル、それに――どこかの企業の決算報告書らしい数列やグラフ。「複製厳禁」などの文字列を見るに、警察の資料というのは噓ではないらしい。それを龍一に手渡して、崇は、そして百合子は何をしようというのか。

それはまだわからない。だが試されている、と同時に、信頼もされている、という気がした。警察に駆け込むなどはそれこそ論外であり――そもそも、これを持ち逃げしたところで龍一には何のメリットもないのだ。

文章やファイルはかなり量が多く、解読には時間がかかりそうだった(そもそもこれが何なのかろくに説明もされていない)。一眠りしてからにしよう――そう決めると急に眠くなってきた。考えてみれば、殺されかけてから十何時間も休息を取っていないのだ。

今日は戻ってこられないかも知れない、その覚悟で出発したところが思いもかけず住処を確保してしまった。それにおかしみを感じないでもなかった。糊の利いた、利きすぎでさえあるベッドに身を横たえた。初めての寝床で初めて見る天井を見上げた途端、睡魔が襲ってきた。

 

夢を見た。

人と言わず、服と言わず、金属と言わず、見るものすべての上を赤黒い炎が這い回っていた。燃える炎の向こうに、かろうじて人に似せたような、異形の影が幾つも揺らめいていた。

 

見覚えのない天井に目の焦点を合わせるまで十数秒を要した。

全力疾走の後のように全身が汗まみれになっていた。濡れて貼りついた下着の感触が気色悪い。籠に衣類を放り込んで全裸になり、シャワールームで冷たい湯と熱い湯を交互に浴びた。

身体を拭き、真新しい下着に着替えた。そして端末であのメモリースティックの解読を続け、そのまま朝まで一睡もしなかった。

 

明け方、渡されたスマートフォンが振動した。崇からだった。

【起きてるか?】

「ああ」

【話がある。出てこい。駅の方のコンビニで待ってる】

返答も待たず切れた。龍一が逆らう可能性など考慮すらしていないような口調だった。むっとはしたが、実際断る理由もなかった。手頃な服を見つけて支度し、部屋を出た。

人々が学校や職場に向かい始める時間帯だった。背のランドセルを鳴らした小学生たちが龍一を追い越してエレベーターの方に走っていき、ゴミ袋を持った若い女性がすれ違いながら会釈した。目の前のドアから勢いよく走り出てきた制服姿の女学生に「ごめんなさい」と謝られ、玄関で朝の散歩から帰ってきた上品そうな老夫婦に挨拶された。

すっかり昇った朝日に龍一は目を細めた。駅の方角へ歩きながら、公園が一つとスーパーが一つあることに気づいた。しばらく腰を落ち着けるなら住みやすそうなところだ、と思った。手頃な定食屋でもあればもっといいのだが。

 昨日とは違うパールホワイトの塗装がまばゆい自家用車がコンビニの駐車場に停めてあった。傍らで崇が「よう」と言いながらひらりと掌を見せた。

 「あれはどこまで読んだ?」車を滑らかに発進させると同時に、崇が口を開いた。

「全部読んだ。内容も頭に入れた」

「ほう」ハンドルの操作に淀みこそなかったが、崇が一瞬、ちらりとこちらを見た気がした。

「何がわかった?」

「『カドゥケウス財団』という名前が何度か出てきた。北米系の医療産業複合体だったと思うが」

 「そうだ。ITOHブレインテック、小川ヘルスケア、SATOメディカルラボ、篠田化成、高村ナノファブリカ......ま、とにかくここ数年で急上昇している医療関連企業はどれもその肝煎りだし、それを言うなら未真名市自体が財団や財団傘下企業の『城下町』みたいなもんだ」

 「そうだったのか。俺はひたすら金の流れる先を見続けてきたから、この街の成り立ちまでは頭が回らなかった」

「じゃ、今からでも遅くはないから注意を向けるようにしろ。会社ってのは、森のきのこみたいに生えてくるわけじゃないからな」

朝の光を浴びた街が色づき、息をし始めていた。眠そうな目でバスに乗り込んでいく学生たち、走る自律自動車の中で仮眠を取っている営業マン。崇の運転はそれらの脇を滑らかに通り過ぎる。

「あの年から十数年、歴史の一大イベントとは無縁だった鄙びた港町に膨大なリソースが裂かれ、一大産業都市に生まれ変わらせた......今じゃ日本有数の一大産業都市、政令指定都市でもある」

「その中にちょっとばかり後ろ暗い金の流れがあったところで誰も気に留めない......企業は喜ぶ、市民は喜ぶ、財団は喜ぶ。じゃいいじゃないか、って話だな。何だ、俺は邪魔者かよ」

すねるなよ、と崇はちらりと笑った。「そうだな。問題は、奴らが後ろ暗い『何か』に手を出しているからって、誰もそれが暴かれるのを望んでないってことだ。財団理事が未真名市警察署長の前でパンツを下ろしでもしないかぎり、逮捕は無理だろうな......それにお前も気づいているとは思うが、ご当主の目的は社会的制裁じゃない」

龍一は頷いた。「それで?これから何をすればいい?」

崇はまた薄く笑った。「朝飯はまだだろ?食いながらそれを詰めようじゃないか。この近くに旨い朝粥を食わせる店があってな」

犯罪工学の少女【1】半島から来た男

小説 未真名市素描

「来ないな......」

「ぼやくな。アポを取ってるわけじゃねえ」

室内に火の気はなく、床に敷いた毛布と懐の使い捨てカイロ以外身を温める術はない。

暖房も照明もない薄暗い部屋に二人が陣取ってから数時間。カーペットすらないフローリングの床は想像以上に冷たく、カイロがなかったらとっくに腹を下していただろう。調理のための火すら起こせず、二人はチョコレートバーをかじって耐えた。

「毛虱の話、もうしたっけ?」

「あんたがろくでもない場所で移された話だろ......そんなの聞かされて、俺にどんな顔をしろってんだよ」

「好きな顔をすればいいだろ。満面の笑顔でも眉根を寄せた切なげな顔でも」

「どれも億劫だよ」

頭もろくに上げられない以上、崇の愚にもつかない話以外に暇を潰す方法がなかったのも確かである。仕事とは言えいつまでこんな苦行が続くんだ、と龍一が本気で思い始めた頃、

「来たぜ」

ノートPCの画面を覗き込んでいた崇の目が鋭くなる。画面には、ゲート前に停まった一台の車、運転手が詰所の警備員に身分証を見せる様子が映されている。車はすぐに動いたが、警備員の緊張した様子ははっきりうかがえた。

「そいつの右耳を拡大しろ。そう、その角度からだ。……止めろ」

 相良龍一は腹這いになったまま、望月崇の指示通りノートPCに接続したトラックボールを操作する。龍一がトラックボールを介して操作するノートPCは窓際の伸縮式マスト――バードウォッチング用の伸縮・首振り自在なモーター内蔵型だ――につながり、さらにその頂点に取りつけられたデジタルカメラの映像を映している。

車はすぐゲートの内側に滑り込んでいったが、龍一はウィンドウからちらりと覗いた男の顔を捉えることに成功していた。整えられた髪、色白で細面。あまりスタイリッシュと言えない黒縁の眼鏡。

「……警備員と同じハンズフリーの無線機を使ってる。軍や警備会社御用達の多重チャンネル方式、暗号化・電波妨害にも強いタイプだ」崇は溜め息をつき、ごろりと横に寝転がって天井の梁を眺めた。「最近やけに警戒レベルが上がってやがると思ったら、奴が絡んでやがったか」

「知った顔か?」

「キム・テシク。裏社会専門の、それもヤの字から信用を勝ち取っている奴なんてそういない。ましてマルスの息がかかったフロント企業のな」

「半島からの客人、か」

「『動乱』の時に祖国を捨ててきたんだろ。今にふさわしくない過去のある奴なんてこの街にはごろごろいる」

「この国でセキュリティ業の需要なんて……」言いかけて龍一は苦笑する。「愚問か」

「メリケンみたいに兵役経験者がごろごろいるわけでもないし、警官や自衛官でもないのに警備員へ大っぴらに飛び道具は持たせられないしな。そういう意味じゃ、この国はまだまだ平和よ」

龍一は画面を巻き戻し、男の顔を拡大した。色白。秀でた額と通った鼻筋。唇は薄く、彫りは深い。厄介かも知れない――理屈でなく、そう思う。「で、どうする。作戦は練り直しか?」

「馬鹿言うな。練り直しどころか、ゼロからだよ」

「......ってことは、今日の俺たちの苦労は……」

「無駄骨だな。高塔百合子は必要経費プラス足代ぐらい出すだろうが。不満だったら一人で殴りこんで来い。止めねえから」

「するもんかよ」

暗くなるのを待って、二人は監視に使った仮住居を撤収した。

麓に降りた頃にはすでに暗くなっていた。一日の安堵と疲労を顔に張り付けた人々が帰路に着いていた。自分たちの徒労に終わった、しかもとても人に言えない仕事を思い起こすと、羨ましくならなくもなかった。

「腹が減ったな……」さすがに崇も疲れたか、運転席で首をごきごきと鳴らしている。「ご当主への報告は後で俺がしておくから、飯でも食ってけよ」

「ありがとう。でも、この辺で下ろしてくれ」

「遠慮すんなよ。俺の懐具合なんか気にしてないだろうな?そういう気の遣われ方、かえって癇に障るぞ」

「別にそういうわけじゃ……」龍一は苦笑しかけて、ふと眉をひそめた。

「どうした?」

「気のせいかな……誰かに見られたような気がする」

 

――寸分の狂いもなく、キーを叩いていた細くしなやかな指が止まる。

「現在予測率50パーセント。ギャンブルなら立派だけど、『工学』と呼べるレベルにはほど遠い数字よね」

広々とした車の後部座席。彼女は指を唇に当て、笑みの形になっているのを確かめる。「星座や血液型占いとはわけが違うもの。『偶然』なんて言葉じゃ、あなただって納得できないでしょ?」

犯罪工学の少女【プロローグ】朗読劇

小説 未真名市素描

夢の中で、私は5歳に戻っている。目隠しをされ、口に布を噛まされ、両手両足を椅子に固定された5歳の少女に。身をよじったが、手の縛めはびくともしない。不思議と恐怖は感じなかった――ただ頭の片隅で、おしっこに行きたくなった時困るな、とは思う。人を呼ぼうにも猿轡のせいで呻き声ぐらいしか出せそうにない。

左頬に熱と、空気の揺らめきを感じる。暖炉、だろうか。そうだ、時々何か――乾いた木が木が焦げる小さな音が、燃えてぱちりと弾ける音がする。それ以外に音は全くない。人の声も、電子音も、空調音すら聞こえない。防音設備の中にいるように、外を走る車のエンジン音や、雨風の音なども聞こえてこない。恐ろしく静かだ。

 

ドアの開く音、複数の靴音。私は身をすくめるが、足音の群れは無視するように目隠しされた私の前を素通りする。椅子を引く音、腰を下ろす微かな軋み。入室者たちは静寂そのものだった――何かの災いを恐れるように。話し声どころか咳一つ聞こえてこない。幽霊みたい、とちらりと思う。

「ヒトの情動はヒト自身が思っている以上に機械的なものである。人工知能の研究とは、すなわち人の思考をオブジェクト化する研究との同時進行でもあった」

いきなり誰かが口を開き、私は怖がる以前に面食らった。若くはないが歳を取りすぎてもいない、壮年の男性の声。私の父より少し年上ぐらいだろうか。

「良心や悪意、嘘や嫉妬といった『人間らしい』感情の大半は、実は大脳の生理運動で説明がついてしまう 。人間らしいか、そうでないかが重要なのではない。おそらくは『人間らしさ』という基準そのものが、そもそも信頼に値しないのだ。今日に至るまで世界の紛争は、経済格差と民族間抗争がその大半を占める。理解できない他者への恐怖とセキュリティ意識の暴走、と言い換えてもよい――だがしかし、己が苦痛をそっくりそのまま他人に転写できる技術が産み出された暁には、その時こそ地上は、生きとし生ける者の腸から引き千切った悲鳴で溢れ返ることだろう」

かさり、という微かな音が聞こえた。紙束をめくる音だ。紙に書いた文章をそのまま朗読しているらしい。私に読み聞かせているのだろうか?しかしその声には、紙の上の文字を読むという以上の意志を全く感じ取ることができなかった。悪意さえも。

 「自然から切り離された人間はもはや野外では生きていけない。一定数以上に膨れ上がった集団は、必ず都市を指向する」

今度は私の母よりずっと若い女性の声。また、かさり、と紙束をめくる音。

 「ヒトは都市に縛られ、都市はヒトを歪め作り変える。オブジェクト指向に突き動かされる母集団の人口比率を操作することにより都市そのものを操作することは、困難ではあるが、不可能ではない。彼ら彼女らは誰かに命じられるまでもなく断崖絶壁へ向けて行進を始めるだろう――強制されたわけではない、これはまごうことなき『私』の選択だと思い込みながら。〈ハーメルンの笛吹き男〉に導かれる、鼠の大群のように」

アラン・チューリングは『考える機械』を創造し、ヴァニヴァー・ブッシュは機械による人の知能増大を提唱した」

さらに別の声、若い男の声。

 「森羅万象をシミュレートできる装置は存在しない――ただしそれは現時点では存在しないということであり、永遠に否定し得るものではない。その誕生の時こそ、我々はデジタル的思考とアナログ的発想を並列しうる非ノイマン型コンピュータの登場を、真の意味でのデウス・エクス・マキナ、『機械仕掛けの神』を目の当たりにするのかも知れない。もっともそれはヒトが――今だに『知性』の何たるかを完全に定義しきれていないヒトが、それを理解できるかどうかは、また別の話だ」

最後の声の主が口を閉じるのとほぼ同時に、複数の人数が立ち上がる音が聞こえた。紙をまとめ、端をそろえる音。置物を動かす音。暖炉に紙の束を投げ込むばさばさという音。掃除機を絨毯にかける音も聞こえる――それから足音の群れは再び私の前を横切り、一言も発せずドアを開けて部屋を出て行った。

目隠しを透かして、部屋の照明が消えたことを知る。

暖炉の火も落とされたのか、室内がしんと冷えてきた。

5歳の私は暗闇に残される。

 

夢はそこで終わり、私は見慣れた自室の天井を見つめる。かざした手に目の焦点を合わせることに苦労する。私は夢を見ていたことを知り、そしてすぐ、あれが夢でなかったことを思い出す。

 

あれがただの夢だったら。

私の人生は、どのようなものになっていたのだろう?

黒の日輪【エピローグ】光に満ちた、暗黒の世界

小説 未真名市素描

シャワーから迸る湯が肌の上を滴り落ちていく。その感触に溜まりに溜まった疲労が流れていくような気分になっていた彼女は、肩のあたりに覚えた鈍痛に思わず顔をしかめた。無理もない――見下ろすと、まるで腐った果実のような赤黒い大痣が生じている。あの男――〈蛇〉に体当たりされた箇所だ。忌々しい――思わず唇を歪める。

なぜあの時引き金を引けなかったのか――あの哀れなイゴール・ザトヴォルスキーには躊躇なく引けたはずのそれを、なぜあの男には引けなかったのか。引けばそれで彼女の任務は終わっていたものを、なぜ。それはあの時以来彼女が捉われ、そしてこれからも幾度となく問い返すことになるだろう、答えのない自問だった。

バスローブを羽織ってホテルの一室に戻ると、ほぼ同時に卓上の電子機器が呼び出し音を鳴らし始めた。携帯ゲーム機に偽装されているが、衛星経由での秘匿回線により盗聴の極めて困難な軍用無線機だ。あわてて起動させる。

【失態だったな】少々のタイムラグを経て、ややかすれ気味の男の声が聴こえた。日本との時差は6時間差。かの地ではちょうど夕方だろうか。

「……申し訳ありません、おじ……いえ、局長」

【やむを得まい。必要条件を満たしているというだけで、経験の浅い君を送り込んだ私にも責任はある】

男の声は平坦だったが、その内容は明らかに自分を気遣ってのものだった。それはかえって彼女を惨めな気持ちにさせた。

「理由はどうあれ、私は失敗しました。その……」

【帰還はない。君にはまだやってもらうことがある。それに〈確保〉の成否はもう急務ではなくなった】

「え……?」

 【〈確保〉から〈監視〉に指示が切り替わったのだ。むしろそちらの方が、キミの得意分野かも知れんな】

呆れるのを通して笑い出してしまうなど、年若い彼女の人生にはそうそうない経験だった。

「普通は逆じゃありませんこと?それとも、最近は殴り倒しておいてから挨拶するのがモサドの流儀なのですか?」

【状況が変わったのだ。〈蛇〉は高塔百合子の庇護下に入った。少なくとも、これまでとは違う慎重なアプローチが要求されることは確かだ】

「それはわかりますが……」

【いいか、〈蛇〉は中東・ヨーロッパ経由での〈ルート〉のみを確実に狙い撃ちしている。一切の企業・犯罪組織・政府機関の支援を受けることなく。それは我々の保安体制に何らかの瑕疵があることを意味する。何としてもそれを探り出さなければならない……イラクから米軍が撤退し、周辺一帯でのアメリカの支援が望めなくなりつつある現状では特にだ】

「〈蛇〉とは何者なのですか?あらゆる種類の政治団体との接触、なし。犯罪歴および精神病歴なし。あるとすれば……過去の過失致死、一件」アメリカ人でもないのに思わず両手を広げそうになる。「要するに彼は何者でもないんです。誰なのですか?」

【それを探り出すのが君の任務だ】

ヒズボラでもアルカイダでも、ネオナチでもない18歳の少年が何者なのか、をですか」

言ってから彼女は自分の失言に気づき、身を強張らせた。局長――彼女の伯父は家族の反対を振り切ってドイツ人のエンジニアと結婚した彼女の母を未だに許していない。物心ついた時からアウシュビッツに送られた曽祖父母が返ってこなかった話を一族郎党から聞かされて育ったのでは無理もないが。

だが叱責の代わりに、回線の向こうから伝わってきたのは沈黙のみだった。ややあって答えがあった。

【彼は、我らと永遠に敵対する者だ。そういうことになっている】

「あの少年が……?」

【今はそれだけしか言えない。追って指示する】

通話は切れた。

彼女はソファにもたれ、しばし黙考する。何らかの𠮟責は覚悟していたが、このような決着の仕方は予想の外ではあった。わけのわからない任務だとは思っていたが、中でもわからないのは伯父――局長の態度だった。失敗と言われても言い訳できない結果の割りには、あまりにも淡々としすぎてはいないだろうか――まるで初めから予想していたように。

彼は任務の成功を望んでいないのではないのか?あるいは、彼を含むモサド首脳部の幾人かは。

彼女は呆然とした。自分の抜擢された理由が任務を失敗させるためであるというのは身震いするような惨めさがあるが、そう考えれば理解不能の任務も、やけに薄い後方支援も説明がつく。暗殺任務に特化した〈資産〉に、モサドは不足していない。それこそ自分のようなセミプロの出番はないはずだ。彼ないし彼女はイゴールもろとも〈蛇〉をやすやすと殺し、今ごろは国外へ脱出しているだろう。

物入れから一枚の写真を取り出し、目の前にかざす。〈蛇〉と呼ばれた少年の写真。彼女――数か月前までベルリン工科大学学生であった、現モサド臨時デイタッチメント、エーディト・シュワルブは呟く。「……それで結局、あなたは何者なの、相良龍一?」

 

一部の隙もなくスーツを着こなした青年は、階段を昇ったところで主の部屋のドアが半開きになり熱に浮かされた子供の落書きのようなメモ用紙が何十枚と散乱している様に深々と溜め息を吐いた。「お嬢様。そろそろ出発の時間です。お嬢様?」

「うるさいわねえ、わかってるわよ」ドアが開き、明るめの髪を強引にヘアバンドでまとめたジャージ姿の少女が、不機嫌そうな顔を覗かせた。「今いいところなのに……スパコンと私のワークステーションクラウド上での同期がどれだけ慎重を要するかわかる?」

「今は後片付けとご出発の準備にその慎重さを割いてください。どうぞお早く」「ちぇっ、滝川ってばお母様より躾にうるさいわね」

「そのお母様からのお頼みですから」

はいはいわかりましたわよおばあちゃま、と少女はぶつぶつ言いながら室内に引っ込む。

「滝川、そこにいる?」

「お嬢様がお支度を終えるまでは離れられませんよ」

「お願いしたいことがあるの。今日から車での送迎コースを少し変えてくれない?」

「は……」

「難しい?」

「いえ、テロや営利誘拐対策に送迎コースを変えるのはむしろ危機管理専門家からも推奨されています。ただ、お嬢様の方からそれを言い出すとは思いませんでしたので。失礼ですが、正直意外で」

「ちょっと思いついたことがあるの。そのうち話すわ。えっと、ブラどこにやったっけ……」

室内からにぎやかな――にぎやかすぎるほど調度品をがたつかせる音が響き始め、滝川は溜め息を堪えるのに苦労する。

「おまたせ!」柔らかそうな髪をふわりと波打たせ、原色を大胆に用いた目に鮮やかな花柄のスカートを翻した少女がトートバックを肩に部屋から躍り出てきた。「さあ早く行きましょ、先生を待たせちゃうわ!」誰のせいですか、と言いそうになるのを滝川はぐっと堪える。

「それで、お考えの送迎コースとは?時間やコースを固定するのは犯罪防止の観点からお勧めできかねますが」

「ううん、時間やコースはあんまり関係ないの。どちらかというと毎日続ける方が大切ね。頼める?」

「それは、お嬢様のお願いとあれば」

「ありがと。じゃ、詳しい説明は車内でするわね」

さあそうと決まれば善は急げよ、どう贔屓しても調子外れに聞こえる鼻歌を歌いながら先を歩く彼女に滝川は苦笑する。まあいいだろう。あの年頃の娘としては彼の主はわがままというものを口にしない性格ではあった(その分、扱いが難しいのも確かだが)。

意図はさっぱりわからないが、それが何かの気晴らしになるのであれば悪いことではない。そう思っている滝川は、それが彼女――瀬川夏姫と、そして自分の運命を大きく変えてしまうことをまだ知らない。

 

艶やかな黒檀のデスクの上に、崇はスーツケースを無造作に置いた。無惨に破壊された錠前と、こびりついた血痕が見えるようわざと向きを計算して置いたが、百合子は眉一つ動かさなかった。少しはびびれば可愛げがあるものを、とちらりと思う。

「あなたの評価は?」

「第一回目のOJTとしてはまずまずってところですか。今後、多少は磨きをかけてやる必要がありそうですが」崇はそこで彼にしては珍しい感慨深げな声を出した。「本当のところ、磨きをかける必要すらなさそうです。現時点では、あれ以上の逸材は望めないでしょう」

「あなたがそう評するなら、その通りなのでしょう」

百合子は軽く頷いたが、崇は応えず黙っていた。それから、低い声で言った。「俺としては、むしろあなたの方に決意を固めてほしいんですがね」

「私に、ですか」

「いずれ俺もあなたも、つけを払うことになるでしょう。ガキを犯罪に加担させたつけを」

百合子が逡巡したにしても、それは一瞬のことだった。「私もあなたも、いずれ地獄に落ちるでしょう。ただその前にやることが一つだけあるということです。最後まで着いてきてくだされば、失望だけはさせません。それは約束します」

「そこまでおっしゃるのであれば」崇は頭を下げた。俺もあなたもとっくに地獄にいると思っていましたがね、とは口に出さなかった。

 

「ここにおられる皆様であれば『究極の兵士』なるものを夢想されたことが一度でもあるかと思います」

拒否の声はなかったが、賛同の声もまたなかった。それに気を悪くした様子もなく、声は続ける。

「より強く、より速く、より遠くへ。一人で万軍を相手取る無敵の超人兵士。……そうご期待なさっている方がもしいらっしゃれば、申し訳ありませんというしかありません。『HW』の最大の利点は量産性と信頼性、それに生存性。ニーチェ的な『超人』とはほど遠い存在なのです」

反応をうかがうようなわずかな間。「......前置きは必要ありませんかな?」

「かまわん。続けたまえ」低いがよく通る声。「私も専門家と言うわけではない。それに順を追った説明の大切さは、皆さんもよくおわかりのことだろう」

「ありがとうございます。――対戦車兵器の発達が戦車の終焉をもたらさなかったように、ミサイルと火砲の発達が地上戦の終結を意味しなかったように。戦場のテクノロジーと情報の共有化もまた、歩兵の終焉を意味しませんでした。にも関わらず、歩兵は全ての兵科の中でもっとも脆弱な存在、『壊れ物としての人間』なのです。

正面火力の発達だけが歩兵の脅威ではありません。地雷と狙撃、毒ガスと爆風、瓦礫とガラス片、そして飢えと寒さと疲労。もっとも脆弱な存在に、敵地攻略には宿痾と言うべき地上戦の主体をゆだねざるを得ないというジレンマ。『HW』とはそれに対する一つの回答です」

顔を見なくとも胸を張る様子が伺えるような誇らしげな声。

「量産性、生存性、そして数さえそろえれば無条件に形成される情報共有能力。それがHybrid Warrior――幾らでも生産、交換、アップグレードが可能な、あらゆる軍隊の究極の夢、『人造の兵士』です」

言葉を切ると、待っていたかのように議論が溢れ出した。「需要があるのは陸軍だけではないな。海兵隊が真っ先に興味を示しそうだ」「特殊作戦軍はどうだろう。強烈なアレルギーを起こしかねないな。自分たちの存在意義を否定されるとばかりに」「わからんぞ。被害を免れない戦域への『撹乱因子』としての投入なら」「NBC兵器の汚染地域、あるいは高地や深海。宇宙空間戦闘。なるほど、需要はありそうだ」「生産ラインの完成には」「時間はかかるが、遠い将来ではない」「ではネックは『原料』のみか」「予算の問題もある」「世情が受け入れるのか。人型の、それも『殺すために生まれた』兵器など」

喧しい議論が一瞬にして静まった。中の一人が、軽く片手を上げて制したのだ。

「予算は、通る。いや、通させる。高級将校や上院議員たちも、自分の子息たちが前線へ送られずに済むとなれば反対する理由もないだろう。世論は――むろん熟考は必要だが、致命的な問題には至らないと思っている。倫理など時代とともに変わるものだ」

「では......研究は続行ということで?」

「当然だ。私たちが何かを諦めたことなど、ただの一度もありはしないのだ」

 

「......報告は以上です」

タブレットを手に報告を終えた金髪の若い女性がそう締めくくると、黙って聞いていた男は呟くように言った。「監視の目が張り付いているのなら結構。〈4騎士〉が投入可能になるまでにはまだ時間が要る。逸るな、と釘を刺しておけ」

「かしこまりました」

「難儀なことだ。イスラエルに巣食う狂信者どもは面白いように騙されてくれるが、動きを制御するのは骨だな」しわがれた聞き取りづらい声に、隠し切れない軽蔑の響きが混じる。「私の思い通りに動く者たちは、思慮が足りない。敬意を払われてしかるべき者は、私の思い通りには動かない」

「心痛、お察しします。彼らは所詮、鋏やハンマーと同じ道具です。過度なご期待はなさらない方が」

「当分は彼らに頼らなければならないのが嘆かわしい。私は彼らに相応しい無能な王なのかという発想は、面白いものではないな」

男は薄目を開けた。厚く垂れた瞼の隙間から、奇妙なほど美しい深緑の目が覗く。

「しばらくは監視に専念させろ。〈黙示録の竜〉は彼の地に降り立った。〈バビロンの大淫婦〉もほどなく姿を現すだろう。聖戦に備えよ」

「御心のままに。猊下

 

「…………東方の若き龍王の目覚めに呼応して、それと対になる存在もまた目を覚ます。英雄が千の顔を持つように、我もまた、二億六千万の顔を持つ」

明暗も、上下左右も、過去か未来なのかさえ不明な空間。

全身を白の装いで統一した青年は、まるで夢を見るような眼差しで呟いた。

瞼がちらりと開き、長い睫毛の下から洗った骨と同じ色の白目と、茶色の瞳が覗く。

「相良龍一、君を食べる日が楽しみだ」

薄桃色の唇の間から異様な色の、大人の二の腕ほどもある太く長い舌がずるりと飛び出した。唾液が飛び散り、白い襟元に汚らしい染みを作る。

「早くここまでおいで。待ち遠しいよ、最も昏い光の中に君が足を踏み入れる時が」

 

――そして幕は上がり、役者たちは舞台の中央に足を踏み出す。

黒の日輪【9】Into The Darkness

小説 未真名市素描

――あなたが相良龍一君ですね。私は高塔百合子です。お母様からあなたのことを頼まれました。

それが彼女の第一声だったが、幼い龍一は不遜にも「この人、嘘が下手だな」という感想を抱いた。本当に彼女が母の知人なら、龍一の父の話に出てこないはずがなかったからだ。おそらくは人の良すぎる父を丸めこむなど造作もなかったのだろう。第一「子育てより仕事の方が楽しい」などと抜かす女が龍一のことを気にかけるだろうか?

もっとも、彼女の話の真偽など龍一にはどうでもいいことではあった。彼はすでに恋に落ちていたからだった。

まだ子供である龍一の目から見ても、お伽話の中から抜け出てきたような少女だった。写真や動画の中でしか見たことのない異境や異国の人々の話、祝祭や奇妙な風習を彼女はせがまれるままに話した。一緒に歩きながら「綺麗に見える歩き方」を教え、とても静かに歩くと龍一を褒めた。

テーブルマナーを龍一に教えたのも彼女だった。スプーンやフォークが思うように使えず癇癪を起こしかける龍一を前に、彼女は手本を示して見せ、テーブルの上の料理が完全に冷え切っても、龍一が同じようにできるまで決して席を立たなかった。

あの時の少女が時を重ね、より美しくなって龍一の前に立っている――だが奇妙なことに、その美しさは彼の胸に何の感慨も呼び起こさなかった。あてもなく歩き続けた挙句、月の裏側に迷い込んだような違和感のみがあった。

崇はしばらくの間二人をかわるがわる興味深そうに見つめていたが、さすがにしびれを切らしたらしい。「BGMに『トリスタンとイゾルテ』でも流しましょうか?〈愛の死〉なんてぴったりだと思いますがね」

 

 それで、と彼は口を開いた。「俺をどうするつもりです」

「どう、とは?」

「警察にでも突き出しますか」

夜は明けかけていたが、その場にいる誰も眠気を訴えなかった。品の良い色彩の調度品に囲まれた応接室。3人の前には湯気の立つコーヒーカップが置かれているが、手をつける者はいない。

龍一の刺すような視線を受けても、百合子の整った容貌には毛一筋ほどの揺らぎもない。崇は馬鹿げた冗談を聞いたように吹き出す。

「サツに突き出すためだけにこんな手間暇かけるもんか、どうせろくに感謝もされねえのによ。第一、お前をここに連れてくるだけでも俺たちは充分危ない橋を渡ってるんだ――何しろ、おまわりさんよりおっかない連中がお前を探しているんだからな」

「初めに話しておきたいのは」百合子が静かに口を開く。「これからあなたに話すことに、私たちは一切の権限を持たないということです。あなたが気に入らなければ、断ることも、ここから出ていくことも、あなたの自由です」

「そ、人はみんな自由なんだ。俺にもお前にも自由はある。檻の中で好きなところに座れる自由がな」望月さん、と諌めるように彼の名を呼んでから、百合子は龍一に改めて向き直る。色素の薄い、灰色に近い瞳が真正面から見つめてくる。「相良龍一さん。私たちの元で働く気はありませんか?」

「働く。どんな」

「一言で言えば請負仕事だな。高塔家の当主であらせられるこちらの御令嬢から依頼を受け、結果に応じた報酬を受け取る。必要経費も出る――ただし、失敗した場合、当然報酬はなしだ」

「大っぴらにはできない仕事なんだろうな」

「求人サイトに乗ってないことは確かだ」

「うさんくさい仕事ですね」

「仕事には違いないだろ。使うものがレジスターかカラシニコフかの違いってだけだ」

崇の軽口には付き合わず、龍一は百合子の目を見返す。あの違和感がさらに強まる――月の裏側にさ迷い出たような違和感。「よくわかりませんね。それがどうして俺なんです?」

「わからないってことはないだろ。別に嬉しくないだろうが、俺をあれだけ手こずらせたのはお前以外にいない」

「俺が動くより速く撃てる奴はごまんといる、そう言ったのはあんただぜ」

もっともな質問です、と百合子は軽く頷く。「私が求めるのは能力より、むしろ動機なのです。相良龍一さん、波多野仁の死の原因を知りたくはありませんか?」

動揺を抑えた声が出せるようになるまで、数瞬の間が空いた。

「……どうしてその名前を」

誰も知らないと思っていた――この世の誰からも忘れ去られていたと思っていた、その名を。

「あなたは彼がなぜ死んだかを知るために戦い続けてきたのでしょう。ただ一人で」

「一人でできることの限界はさっき思い知ったばかりだろう。お前が真相に――まあそんなものがあるとしての話だが――たどり着くまでに、いったい幾つ死体を転がすつもりだ」さりげないが、冷たい口調だった。

「そもそもそれを突き止めて、お前はどうするつもりなんだ」

「それは」言いかけて、彼は口ごもった。その問いへの答えが自分の中に何もないことに気づいたからだった。

「まあたとえば――その何とかさんとやらを殺したのがモサドみたいな国家機関だとして、お前はどうしたら満足するんだ?関わった人間を一人残らず殺しでもすれば、お前は満足するのか。手を下した奴、支援した連中、命令した上司、その一族郎党。どこまで殺れば気が済む?それができると思うんなら、お前には医者が必要だ。おつむ専門のな」

返す言葉がない様子の龍一を見て、崇は心底気の毒そうな顔をした。「自分が何をしたいのかもわからないか……じゃ、わかるまで俺たちを手伝うんだな」

「あなたの望みがそれであれば、私の力が及ぶ限りですが、調査を行います。――それで、あなたが満足するのであれば」

百合子の色素の薄い灰色を帯びた瞳が、改めて龍一の顔を見た。見覚えのある瞳だった――かつて一目で龍一を虜にした、あの少女の瞳だった。

「過去を忘れることはできないかも知れません。でも、振り払うことはできるはずです。離れて生きることはできるはずです。……私は、そう信じています」自分に言い聞かせるような百合子の声だった。

龍一は百合子を見た。次に興味しんしんといった顔の崇を見た。そしてもう一度、揺るぎない視線の、しかしどこか祈るようにも見える百合子に目を戻した。その時にはもう、答えは決まっていた。

「わかった。……それで、何から始めればいい?」龍一の答えに、崇は微かだが頬を緩めた。彼なりに緊張していたのかも知れない。

「そうだな、まずは……」そこで彼は百合子と目を交わした。心なしか、百合子の表情も少し和んで見えた。

「まずは、お前を磨いてやることからかな」

「……は?」

 

美容師の朗らかな「ありがとうございましたー!」の声に送られて龍一は店を出た。表に停まっていた崇の車に乗り込む。

「頭がすかすかする。落ち着かない」

「いいじゃないか。あのもっさい髪形に比べりゃ充分男前に見えるぜ」

「美容院なんて生まれて初めて行ったよ……顔を剃ってくれないのか」

「勉強になったろ。さて、次は服と靴だな」

「おい、本当に買うつもりなのか?」

「いいじゃないか。経費に勘定していいってご当主の仰せなんだからよ」

「経費って……」

「仕事着と作業靴だと思えよ。それともお前、ソマリアだのナゴルノ・カラバフだのに送られるとでも思ったか」

なんだか調子が狂うな、と龍一は溜め息を漏らし、前髪をいじった。

「あんたといい百合子さんといい、何を考えてるんだか……」

「気分はましになったろ?」車が走り出す。微かに開いたウィンドウから微風が差し込んでくる。短くなった頭髪が風になぶられる感触を覚えながら、龍一は「まあな」と呟いた。

「あんたもその気になれば、まともなことも言えるじゃないか」

「……何だと?」

「まあ、別に不思議じゃないか。俺だって冗談が言えるくらいだからな」

「お前……案外根に持つタチだな」

 

(次回、エピローグ)