High Tech & Low Life

アイダカズキの(主に小説用)ブログです

お知らせ

当ブログで不定期更新中の『未真名市素描』ですが、いろいろ考えた末、今後は『Crime and Punishment』と改題し、小説投稿サイト「カクヨム」様にて展開させていただくことに決めました。

本格的な小説投稿サイトの方が文字組機能が充実していること(『行頭字下げ』『ルビ』などはやはりブログでは如何ともしがたいです)がその理由です。

ブログに上げた文章はしばらく残しておきますが、順次移稿していく予定です。

今まで当ブログに足を運んでいただいた方、読んでくださった方、ありがとうございました。より多くの人に、バージョンアップした形で僕の小説を読んでいただきたくよう鋭意努力中です。しばしのご猶予を。

kakuyomu.jp

犯罪工学の少女【3】Femme fatale

【時間だ】

耳孔に差し込んだイヤホンの位置を調整していると、前触れなく崇の声が聞こえてきた。【準備はいいな?】

返事の代わりに数度こつこつとイヤホンを指先で叩く。鼻孔から息を吸い、また鼻孔からゆっくりと吐き出す。肩甲骨を上下させ、背中全体の凝りをほぐすよう努める。背中どころか全身が無意識の内に強張っていたことに、龍一は初めて気づく。

歩きながら崇の声を聴く。【エレベーターが降下を開始してから十秒以内、30階と29階の間で『なぜか』停電が起こる。時間はかっきり2分間。相手はボディガードを入れて4人。できるな?】

またイヤホンを叩く。

 前方にエレベーターホールが見えてきた。空調が効いているはずの廊下の空気が、湿気を含んだようにじっとりと重く粘く感じる。敷き詰められた絨毯に足首が沈んでいくような錯覚。

ホールには先客がいた。アタッシュケースを鎖で手首につないだ男と、それを囲む屈強な3人の男。一様に険しい表情。エレベーターのドアが開き、男たちが乗り込もうとする。

「すいません」

龍一は軽く頭を下げ、乗り込んだ。男たちは嫌な顔をしたが、静止はしなかった。

ドアが閉まり、ボックスが降下を開始する。龍一と男4人を詰め込んだ空間は、実際以上に狭く感じられた。仏頂面の大男3人はともかく、アタッシュケースの男――胃の弱そうな痩せぎすの男だった――は不機嫌さを隠せていない。

沈黙の中、エレベーターの階数表示が目まぐるしく変わる。47階――35階――31階――

男たちに気づかれないように、龍一は軽く鼻孔から息を吸い込む。

30階。

轟音と共にボックスが大きく揺れ、一瞬遅れて全ての照明が消えた。

 

人の目が暗闇に慣れるまで数秒――鍛え抜かれたボディガードでも不意の停電に対する暗視訓練など受けてはいないだろう。しかも龍一は、停電の数秒前に目を閉じていた。

男たちの狼狽を聴きながら、目をつぶったまま隣の男の胸板に肘を叩き込んだ。分厚い肉と骨を通して確かに内蔵へ打撃を伝えた感触。げっ、という苦鳴と微かな吐息。

間髪入れず、左隣の男のネクタイをつかみ、引き寄せながら掌底突きを顎に見舞った。拳による直接的な打撃ではなく、頭蓋骨に包まれた「脳を揺らす」ための浸透的な打撃。どれほど屈強な男だろうと「脳を揺らされ」て立っていられるのは漫画かアニメのヒーローの話だ。

眉間を銃で撃ち抜かれたように男の身体が崩れ落ちた。胸を押さえて呻いていた男の頭を抱え、前方に投げた。大柄な体躯が一回転し、大音響とともにボックスの床に叩きつけられる。

だがさすがにプロのボディガード、最後の一人が掛け声とともに背後から組み付いてきた。龍一の体躯がきしむほどの力。

しかし、それこそ龍一の狙ったポジションだった。組み付かれる寸前、龍一は前方を向いたまま自分から男に体当たりしていた。タイミングをずらせれば、タックルの効力は減じる。

背後の男もろとも、壁に体当たりした。壁と龍一の背でサンドイッチになった男の、蛙の潰れたような呻き声。

一気に腕を振りほどき、振り向きざま前のめりになった男の後頭部に思い切り肘を落とした。最後の一人が糸を切られたようにどっと倒れ込む。

息を吐――こうとして、龍一は呆然とこちらを見上げる視線に気づいた。壁際に尻餅をついたアタッシュケースの男、きれいにプレスしたズボンの股間に、じわじわと黒い染みが広がっていく。

笑う気にはなれなかった。市井の人々は、間近でこのような暴力の行使を見慣れていないのだ。

やや反省しながら龍一は男の顔面を鷲掴みにし、できるだけ優しく背後の壁に叩きつけて昏倒させたのだった。

 

照明が着き、一度軽く揺れてから再降下を始めた。チャイムと共にドアが開くと、作業服姿の崇が「よ」とだけ言って手を挙げた。すぐにエレベーターにずかずか入り込むと、手にしたボルトニッパーを使ってアタッシュケースの鎖を切断した。何百回と練習したような手際の良さだった。

「手伝うか?」

「いや。カメラは殺してあるから復旧する前にその足で玄関から出ろ。後から車で拾ってやるから先に行け」崇は目も合わせず、作業用ワゴンにアタッシュケースを放り込んだ。別段異論もないので龍一はその言葉に従うことにした。

エレベーターを使わず、階段を下って直接フロントホールへ降りた。御影石作りの壁も床も顔が映るほど磨かれて黒く、昼なお暗かった。行き交う人々のシルエットもどこか影法師に似て黒く、夢の中を歩いているような気分だった。フロントカウンターの背後では世界各地の時計が時を刻んでいた。カウンターの東側に薄暗いカフェ。客の姿はまばらで、コーヒーを放置したまま船を漕いでいる営業マンか、歯の抜け落ちた口でトーストを咀嚼している老婆たちがほとんどだった。

龍一の視線が、一対の座席の前で留まった。

――カップを持つ白い手が優雅きわまりない動きで桜色の唇に近づいていくのが、なぜか薄暗がりの中でもはっきりと見えた。

龍一と同年代の若い女、というより少女だった。カフェの薄暗さに溶け込むような黒のワンピースに、色鮮やかな光沢のある青灰色のストールを合わせている。赤みがかった髪は束ねず、肩まで伸ばしている。口元までカップを運んだ手が止まった。アーモンド型の大きな瞳が、確かにこちらを見た。

あの視線の主だ。理屈ではなく、そう感じた。

真横を通り過ぎた瞬間、少女がすっと立ち上がった。レジを素通りしたのは電子決済で支払いを済ませたからだろう。確かに、小銭など持ち歩いていそうにない風情だ。

龍一は背に意識を集中した。彼のものよりわずかに軽い足音が近づいてきた。意外に早い。

「強盗稼業はお気に召した? けだものの王子様」

愕然とした龍一を容易く追い抜き、少女は肩越しに振り返った。十代の少女にしか浮かべられない、恐ろしく意地の悪い微笑が唇に浮かんでいた。無意識の内に手を伸ばしたが、彼女はそれに気づかず、気づくつもりもないような足取りでそれをすり抜け、ホテル玄関に停車した黒塗りの車に乗り込んだ。

ほっそりした立ち姿が車内に消え、音もなく車は発進した。

白日夢から目を覚ましたばかりの人のように、龍一は立ち尽くした。

幕間・獣の肌

――隣室からはベッドの激しくきしむ音と、低く唸る獣にも似た男女の営みの声が漏れ聞こえてくる。全身を黒の装いで統一した男は顔色を変えることなく、ソファに腰かけて待ち続けた。

やがて隣室とのドアが開き、下着姿の女が転げ出てきた。泣き腫らした目のまま衣服を抱え、男には目もくれず廊下へ走り去る。

隣室から筋肉質の裸体を惜しげもなくさらした男がゆっくりと歩み出てきた。首筋から二の腕、背から尻全体までも覆い尽くした赤黒い鬼子母神の刺青が、汗でぬめ光っている。

「待たせて悪かったな」大して悪びれた様子もなく、刺青の男は腰を下ろした。「言ってくれれば、お前も混ぜてやったのに」

「遠慮しておく」

刺青の男は鼻を鳴らし、体温を感じさせない相手の白面を見やった。「そんな出来た面を持っていて女嫌いか。男が好きなら手配するぞ」

「そういうわけじゃない。女の肌も男の肌も、俺には熱すぎるだけだ」

「坊主でもあるまいし。女優だかモデルだかの卵なんて、一山いくらで手配してやるってのに。もっとも今日のは駄目だな。払うもん払った割りには愛想のない女だった」

「愛想を振りまく気にもならなかったんだろう。顔を殴ったな」

刺青の男はさも不当な言いがかりを聞いたような顔になった。「おい、そんな目で見るなよ。金は払ったんだ。合意の上だぜ」

「俺じゃなく、あの女に言え」

刺青の男は何かを言おうとして、止めた。「今日はお前からフェミニズムの講義を受けたい気分じゃないんだ。そいつを見ろ」

机の上に投げ出されたファイルを手に取り、めくる。しばらくして黒服の男はぽつりと言った。「一月につき3件のペースか。仕事熱心だな」

「もう億近い損害が出ている。穴埋めだけでも一苦労だ」

「防火服......催涙ガス......セキュリティカメラの画像は抹消済み。手慣れた奴らだ」

「それなりに屈強な奴を置いておいた所まで襲撃を食っている。度胸試しの殴り込みなんかとは毛色が違うし、腰抜けの市民団体には逆立ちしても出せない発想だ。犯行声明も――今のところ、出ていない」

刺青の男は内緒話をするように声を潜めた。「ここだけの話、中国人やロシア人もやられているらしい」

「無差別か。自殺にしてももう少しましな方法があるだろうに」

「去年の抗争以来、市警に介入の口実を与えないって点じゃ思惑は一致している。何より、チャイニーズやロシアンとはそれなりに『棲み分け』ができている。わざわざ揉め事を起こすとは考えにくい」

「話が見えてきた。こいつらを探せばいいんだな」

「探すだけじゃない。捕らえろ」刺青の男は断ち切るように言った。「お前はうちの『セキュリティ・コンサルタント』だ。あれだ……カウンターテロって奴だよ。口が利ける状態ならなおいい。泥を吐かせる必要があるからな」

「難しいぞ。用心している相手を炙り出すには、それなりの餌がいる」

「『不可能』ではないんだな?」

「ああ」

「ならいい。行け。これ以上やんちゃされたら、お前の信用にも関わるだろう」

黒服の男が立ち上がる。「このファイル、借りるぞ。少し準備する時間をくれ」

「頼むぞ。金も人も、必要なら幾らでも用意する」

「金はともかく、人はそれほど多く要らない。身軽な方が動きやすい」

黒服の男が踵を返す寸前、刺青の男は思い出したように言った。「今はゴキブリ駆除に専念しろ。一段落したら、お前にも例の計画に加わってもらう。合わせたい女がいるからな」

「女?」

「ああ。お前と同じ、半島から来た女だ」

犯罪工学の少女【2】狩る者たち

アカデメイア・コムリンク企画6課の藤松室長ですね? 少々お時間をいただけますか?」

「そうだが、何だね君は?」車に乗り込もうとしていたところを振り向いた男は、リムレスの眼鏡越しに望月崇へ胡乱そうな目を向けた。「君は雑誌記者か? 取材だったら受付を通してくれないか。こんな駐車場で話せることは何もない」

「いや、失礼――受付を通されるとそちらが困るんじゃないか、と愚考しましてね。ほらどうです、よく撮れてるでしょ?」

崇はこれみよがしに、二枚の指で挟んだ写真をひらりと振ってみせた。「お顔に似合わず、なかなかご立派な一物をお持ちじゃないですか。相手の坊や、どう見ても一番下の息子さんより年下ですよねえ。4つですか? それとも5つ?」

「き、貴様、それをどこで手に入れた……!」

肉体労働とは縁のなさそうな、どちらかと言えば色白で細面の顔が赤黒く染まる様は、なかなかに――少なくとも、背後の柱の陰に身を隠す相良龍一にとっては――見ものだった。

「金か? 金が目当てなのか? いくら欲しいんだ?」焦りを隠せない様子ながらも、徐々にだが駐車場監視カメラからの死角に移動しつつある。頭は悪くない――だがその回転の速さは崇にとっても、そして龍一にとっても、完全な空回りだった。この窮地はその回転速度こそがもたらしたものだというのに。

「何ならこの場で、1千万でも2千万でも小切手を切っていただきましょうか? ……やだなあ、そんなことしたら脅迫罪になっちまうじゃないですか。ただ……」

その言葉を合図に、龍一は男の背後から組み付いた。手首と肘の急所を的確に決めてしまえば、決して力では振りほどけない。力比べになったとしても、龍一の腕を跳ねのけられる者などそうはいない。

拘束バンドで手首を縛るまでに半秒。前方の崇が叫ぼうとした口にボールギャグを突っ込み固定するまでに半秒。リムレスの眼鏡を弾き飛ばし、上下の瞼を閉じられないようにクリップで固定してしまうのにもう半秒。

「ただこちらの箱を、ちっとの間、覗いているだけでいいんですよ」崇は悪戯っぽく笑いながら、呻いている男の顔面に金属製の箱を近づける。「大丈夫ですよ。目ん玉が乾かないように、後ろのでかい奴がちゃんと目薬を差してくれますからね。ほら、『時計じかけのオレンジ』って映画、ご存じでしょ?」

 

「お疲れ」

「言われた場所に転がしてきた。運が良けりゃお漏らしする前に助けてもらえるだろ」助手席に滑り込んだ龍一は肩をごきりと鳴らした。「じゃ俺、一仕事したからもう帰っていいか」

「馬鹿言ってんじゃねえ、ふん縛られて呻いているおっさんに目薬差すだけの誰にでもできる簡単なお仕事だろ」藤松から奪ったスマートフォンを操作していた崇は、思い出したように懐から写真を取り出し、龍一に投げた。「そうだ、もう使わないから、これでも見てほっこりしろよ」

「……何だこれ?」

「見ての通り、母豚のお乳を無心に吸う仔豚ちゃんたちだよ。『ハンマーを持つ者には、何でも釘に見える』んだ。覚えておけ」

「こんなもんでびびるなんて、あのおっさんも気の毒に……」

「良心なんざこれっぽっちも痛まねえな。インサイダー取引やら、指定暴力団の『黒い』投資ファンド転がしやらで、さんざん甘い汁を吸ってきたんだ。たまには地獄の水も舐めた方が、人生に張りが出るだろうさ」崇はうそぶいてから、指先でくるくる回していた灰色の作業帽を目深にかぶった。「さ、次だ。まったく貧乏暇なしだな」

 

龍一が高塔百合子の、そして崇の元で――決して職業斡旋サイトには乗らない類の仕事を――働き始めてから、数か月が経った。

偽の身分を通して家賃と税金と保険料を払い、偽名義のクレジットカードで「仕事」に必要な道具などを買う。時間がある時は筋トレに精を出し、休憩時間には崇から渡された資料――おそらくは警察の内部情報――を読む(勉強を嫌がるお尋ね者は長生きしねえぞ、というのが崇の言い分だった)。

仕事の際は足の付かない「飛ばしの」携帯で依頼を受け――血を見るかどうかは「仕事」の内容にもよる――僻地の不法投棄場で、あるいは廃車処理場で使った車や道具を処分して元の生活に戻る。やっていること自体は、龍一が個人でやってきたことと変わりはなかった――むしろあまりの変わり映えのなさに呆れ返ったほどだった。ただ信じられないほどの金と手間をかけて、同じことをやっているだけだ。詳細なターゲットのスケジュールと移動経路、襲撃する建物の詳細な図面、スパイ映画顔負けのガジェットの数々、そして龍一たちの「暴れた」後をいつの間にか綺麗に片付ける、顔のない者たち。本当にスパイ映画の主人公になった気分だ。

「金と手間。それが肝心なんじゃねえか」崇は笑った。「その二つがそろわなきゃ、テロ屋だってボヤ一つ起こせねえんだからな」

見知らぬ誰かをぶちのめして、泥を吐かせる。どこぞの会合に殴り込んで、その場にある金も物品もすべて奪う――そのような行為の積み重ねが、果たして俺の目的の何につながるというのだろう、という疑念がよぎらないでもなかった。だが百合子は約束した――あなたの追うものには私も関心があります。私の仕事を手伝うことへの報酬を、その調査という形で払うことではどうでしょう? もちろん、高塔家の力の及ぶ限り、という条件でですが。

龍一にとってはその言葉だけで充分だったのだ。

 

昼なお暗い立体駐車場の薄暗がり、天井からの照明に舞う埃の粒を何となく見ていた龍一は、階下からのエンジン音で我に返った。傍らの崇が懐からストップウォッチを取り出す。

「時間通りだ。警備室は俺が押さえる。三分以内に終わらせろ。行け」

龍一は頷き、足音もなく柱の陰から滑り出た。顔認証ソフトを欺くための特殊メイクで顔のあちこちが突っ張っている。子供騙しみたいな原理だが、通じるところには通じるらしい。この複合ビルのセキュリティカメラは設備の老朽化と人員の高齢化により、数世代前の顔認証システムを未だに更新できていない。崇がここを襲撃地点に選んだ理由の一つだ。

白のワンボックスカーがゆっくりと階下から昇ってきた。目玉のように光るヘッドライトが自分を照らす寸前、龍一は握り込んでいた金属の円盤を投擲した。

円盤はカーリングのように床を滑り、車の真下に達した瞬間、磁力で車の底部に張り付いた。何かが弾け割れるような鋭い帯電音、金属と樹脂が焦げる異臭。車はゆるゆると速度を落とし、傍らの柱に衝突して鈍い音を立てて停まった。

運転席が勢いよく開き、頭から血を流した革ジャン姿の若い男が転がり出てきた。何が起こっているか理解できていない様子だったが、それでも懐から何かを取り出そうとしている。刃物か、それとも飛び道具か――もちろん龍一は確かめる前に一歩で距離を詰め、二歩目で右肘を男の腹に深々と突き刺した。げっ、と呻いて身を折る男の後頭部に左肘を落とし、気絶させる。

 背後から崇が走り寄ってきた。片手のストップウォッチを停止させ、反対側の手で小型の拳銃を構える。これ見よがしに銃口を振った――龍一にではなく、車内の人間にだった。

後部座席のスライドドアが開き、現れたのはもつれた髪に無精髭、Tシャツ短パン姿の、龍一と同じくらい若い男だった。若いどころか、ほとんど少年だ。

銃口を見るとさすがにぎょっとしたが、やがて諦めたように両手をおざなりに上げてみせた。「あーあ、いつかはこういう日が来ると思ってたよ......ここを嗅ぎつけられたってことは、藤松さんの身柄も押さえたんだね。もう始末したの?」

「死んじゃいない。出社可能な状態じゃないけどな」崇は含み笑いした。「お前の頭を『処刑スタイル』でぶち抜くのは俺たちの仕事じゃない――少なくとも今はな。ただちょっとばかり、商売道具を見せてほしいんだが」

若い男は肩をすくめた。「いいよ。否応もないしね」

後部座席を覗き込むなり、崇は唸った。「こいつは......すごいな」

龍一も背後から車内を伺ったが、大型の違法改造らしき無線機と数台のモニター、それに空間を埋め尽くす意図不明な電子機器しか見えなかった。

「偽装してあるけど、表におっ立てたアンテナは指向性だな。移動ハッキング局かよ」崇の目がぎらぎらと輝いている。この男の癖で、面白そうな「おもちゃ」に興味を示さずにはいられないのだ。「道理で、アクセスポイントを突き止めるのに苦労したぜ」

「これで官庁街やオフィス街を走り回ると、けっこうおいしい情報が拾えるんだ。薬害が発覚して慌てふためいた製薬会社の重役連の揉み消し指示とか、IT企業の社長が女子社員に寄越す、ちょっと表沙汰にできない粘着気味のメールとかね」

まるで自分が褒められたように若い男は上機嫌だった。「いい歳したおっさんに限って、相当重要な新製品の発表スケジュールや製造施設みたいな機密データをネットでやり取りしてるから、それを引っこ抜くだけでも充分美味しいんだ。藤松さんもそれを使ってずいぶん荒稼ぎしたみたいだね。車代と機材費差し引いても安い買い物だって喜んでいたけど」

ぼろい商売だ、と崇は何がしかの感慨を覚えたような口調で言った。「欲しがる奴は山ほどいそうだな......しかし警察のサイバー犯罪対策課だって馬鹿じゃねえし、ハッキングは未成年でも重罪だぞ」

「その時はその時さ――修正パッチのやり方もろくに知らないおじさん社員とか、スマホのパスワードも店で買った時から替えてない馬鹿なOLとか、『踏み台』には事欠かないしね」

「この悪党がよ」

「銃を突きつける人に言われたくないけどね」

「銃ってこれのことかい?」

崇は引き金を引いた――水が男の顔面を直撃し、男は盛大にむせた。「ひどいな! 本物じゃなかったのか!」

「本物に見えたろ? なら充分だろうが」

崇と男はそろって笑い出し、龍一はだんだん腹が立ってきた――何だこいつら、初対面だってのに馴れ合いやがって。

男は顔をぬぐいながら、初めて龍一の方を見た。「そっちの強そうなお兄さんは、あまり面白くなさそうだね」

「ああ、何せ新入りでな。『遊ぶ』ことの高みと歓びを知らないんだ」

興味深そうな目で見られた。「確かに、ハッキングなんて趣味じゃなさそうだよね。どう見ても一人一殺のヒットマンタイプって顔だ」

余計なお世話だ、と思ったが口には出さなかった。

「それにしても君のさっきの動き、すごかったね。カポエラ? シラット? まさか八極拳じゃないよね?」

「詮索はそこまでにしときな」崇は藤松のスマートフォンを機器に接続してロックを外し、サーバー内のデータを吸い出し始めた。「さ、そろそろこっちの車に乗ってくれ。お前さんの『エスコート』も依頼の一環でな」

「まあ、そうだろうね......あ、その前に運び出せる機材は持って行っていいだろ、結構高......」

龍一は彼の言葉を待たず、取り出した水筒の蓋を開けて中身を機材の山にぶち撒けた。盛大な白煙が起こり、モニターとサーバー群が水飴のように溶け崩れた。

何とも言えない顔で見返す男に、龍一は肩をすくめてみせた。「悪い、手が滑った」

 

崇が車の速度を落とすと、若い男は怪訝そうな顔になった。「ここが僕の処刑場なのかい? 血で汚すのがもったいないくらい煌びやかな場所だけど」

「いんや、間違っちゃいないよ。ここが終点だよ、イルハングループ総帥の三男坊、イ・スンシンさん」

若い男の顔が緊張したのは崇の言葉か、それとも『ホテル・エスタンシア』の正面玄関から現れた黒服の男たちを目にしてか。黒服たちは靴音が聞こえてきそうな正確な歩調で車に近づき、若い男の前で恭しく頭を下げた。「お迎えに上がりました」

「さ、ネバーランドの探検はここで終わりだよ。帰った帰った」

若い男は笑おうとしたようだったが、実際に口から漏れたのは溜め息だった。「何だ、君たちも人が悪いなあ。全部父さんの掌の上かよ......」

「そう悲観したものでもない。こんな調査、探偵どころか警察だってぶるっちまって引き受けないからな。少なくとも御父上の肝は二、三度ほど冷えたと思うぜ」

「なあ、俺が言うのも何だが、ヤバい商売に首を突っ込まずに済むんならそれに越したことはないんじゃないのか」言おうか迷ったが、やはり龍一は言わずにいられなかった。「俺はこの仕事を恥じるつもりはないけど、誇りたくもないんだ」

「偉大すぎる父親を持てば、君の意見も変わるよ......」スンシンはどこか寂し気に笑った。終始飄然とした彼が初めて見せる顔だった。「とは言え、君の言ったことは検討しておくよ。ありがとう」

 

「あの坊ちゃん、これで懲りてくれるかな......?」

「どうかな。第一お前だって懲りないじゃないか。自覚がありゃいいってもんじゃねえぞ」

「言うなよ」龍一は顔をしかめた。いつになく感傷的になっていた。あの男の父親に対する屈託に触れたせいかも知れない。

「ま、これで本日の作業は終了だ。後片付けは勘弁してやるから、帰って休めよ」

「ありがとう、そうす......」緩みかけた背中が、龍一自身にもわからない理由で緊張した。

「どうした?」

「......まただ」

また、誰かが俺を見ている。

 

「......ようやく見つけた」

笑いの形に緩めた唇に、少女は指を当てた。「やっぱりあなたが絡むと、未来予測は困難になるみたい――でも、それはあなたの存在を抜きにして私の望みは実現不可能、ということよね」

ディスプレイの中の龍一に向け、少女は小首を傾げる。「私を知らない、私が知っているあなた。あなたはどこから来たの? 何をするためにこの街に現れたの?」

別ウィンドウの画像を指先で軽く弾く。履歴書のスキャンデータ。荒い粒子の、今よりもずっと痩せて顔色の悪い龍一の写真。

「ネットの海のどこを探しても落ちていない、あなたの『空白の一年』に何があったのかしら?」

幕間・新しい街で生きるということ

そもそもお前は、とハンドルを握りながら崇は口を開いた。「どうしてこの街に来たんだ?その何某さんとやらの死の原因がここにあると、どうやって突き止めた?」

「17年前からの逆算」それだけ言うのに、少し時間がかかった。「沖縄で戦術核を用いたテロが発生し、海の向こうで動乱が起きたあの年、膨大な人と金と物流の移動が生じた。堅気も――そうじゃない連中も。一夜で落ちぶれた奴も、一夜にして名を挙げた奴もいる。その中でも沖縄に拠点を置き、なおかつ17年前以降に勢力を増している指定暴力団体をピックアップした。大陸や半島からの武器や麻薬ルートが特に太い団体となると、さらに限られる。どれもここ数年で未真名市に進出していた。人も、金も......奴らが何だってこの街をパラダイスと思い込んだのか俺にはさっぱりわからないが、とにかく膨大な量が流れ込んでいる。後は、根気の問題だった」

横を見ると、崇の口が半開きになっていた。「どうした?」

「どうしたもこうしたもねえよ。それを一人で割り出しやがったのか......末恐ろしい餓鬼だ」

「一人じゃない。金も人も使った」

「金と人を使ったって、的外れじゃ意味がねえ。自分の命を懸けてよくやるよまったく......」

首をすくめた後で、崇は口調を改めた。「だがお前の荒っぽいやり口も、それはそれで効果的だったみたいだな。何しろいきなりイスラエルが出てきたんだぞ。宝くじで当たった河豚に当たるくらいの確率だろ」

「死にかけた上に大した手がかりも掴み損なったけどな」

「そう悲観したもんでもねえ。ただこれから先は――もう少し注意深くやる必要はある。もっとも、そりゃ明日以降の話だ」

落ちかけていた日が視界から遮られた。車が地下駐車場に滑り込んだのだ。

 

「今日からここに住め」

言われて、龍一は面食らった。車が着いた先は未真名市中央駅から徒歩十分ほど、五階建ての小奇麗なオートロック式マンションだった。クローゼットや作業用デスク、冷蔵庫など一通りの調度品は揃っている。床はフローリング。壁紙やカーテンの色も落ち着いた上品な色合いだ。

「俺、金ないよ」

「当面の生活費はご当主が負担するそうだ」そんなもの期待してない、と言わんばかりの答えだった。「家賃は口座引き落としにしてあるから管理人と顔を合わせる必要もない。市民税や健康保険税も同じ口座から差し引かれるが、余った金は好きに使っていい。どうせ何かと要りようになるからな」

帰り際に崇はマンションの鍵と免許証(もちろん偽造だ――言われなければわからないほどに精巧な)、真新しいスマートフォン、それにメモリースティックを手渡した。

「これは?」

「警察の捜査資料」崇は事もなげに言った。「出所は聞くなよ――俺もご当主も困る」

龍一は頷いた。崇にも百合子にも、迷惑をかける気はなかった。

龍一の顔をちらりと見て、崇は続けた。「いずれご当主はまたお前を呼び出すが、それまでお前が何をしようと自由だ。まあ言われるまでもなく、お前は遊び呆けるつもりもないだろうがな......」

崇が帰ってから、龍一は室内を改めて見回した。貸しコンテナや安物のビジネスホテルに泊まり慣れた身では、室内の調度は眩いばかりだった。クローゼットを開けるとラフな部屋着から冠婚葬祭のためのスーツ一揃い、男物の下着まで見つかった。おまけにサイズまでぴったりだった。まさか百合子が直接手配したわけでもないだろうが、何となく顔が赤くなってしまった。

デスクの上の端末を立ち上げ、渡されたメモリースティックを読み込ませる。電書化された供述書、音声や動画ファイル、それに――どこかの企業の決算報告書らしい数列やグラフ。「複製厳禁」などの文字列を見るに、警察の資料というのは噓ではないらしい。それを龍一に手渡して、崇は、そして百合子は何をしようというのか。

それはまだわからない。だが試されている、と同時に、信頼もされている、という気がした。警察に駆け込むなどはそれこそ論外であり――そもそも、これを持ち逃げしたところで龍一には何のメリットもないのだ。

文章やファイルはかなり量が多く、解読には時間がかかりそうだった(そもそもこれが何なのかろくに説明もされていない)。一眠りしてからにしよう――そう決めると急に眠くなってきた。考えてみれば、殺されかけてから十何時間も休息を取っていないのだ。

今日は戻ってこられないかも知れない、その覚悟で出発したところが思いもかけず住処を確保してしまった。それにおかしみを感じないでもなかった。糊の利いた、利きすぎでさえあるベッドに身を横たえた。初めての寝床で初めて見る天井を見上げた途端、睡魔が襲ってきた。

 

夢を見た。

人と言わず、服と言わず、金属と言わず、見るものすべての上を赤黒い炎が這い回っていた。燃える炎の向こうに、かろうじて人に似せたような、異形の影が幾つも揺らめいていた。

 

見覚えのない天井に目の焦点を合わせるまで十数秒を要した。

全力疾走の後のように全身が汗まみれになっていた。濡れて貼りついた下着の感触が気色悪い。籠に衣類を放り込んで全裸になり、シャワールームで冷たい湯と熱い湯を交互に浴びた。

身体を拭き、真新しい下着に着替えた。そして端末であのメモリースティックの解読を続け、そのまま朝まで一睡もしなかった。

 

明け方、渡されたスマートフォンが振動した。崇からだった。

【起きてるか?】

「ああ」

【話がある。出てこい。駅の方のコンビニで待ってる】

返答も待たず切れた。龍一が逆らう可能性など考慮すらしていないような口調だった。むっとはしたが、実際断る理由もなかった。手頃な服を見つけて支度し、部屋を出た。

人々が学校や職場に向かい始める時間帯だった。背のランドセルを鳴らした小学生たちが龍一を追い越してエレベーターの方に走っていき、ゴミ袋を持った若い女性がすれ違いながら会釈した。目の前のドアから勢いよく走り出てきた制服姿の女学生に「ごめんなさい」と謝られ、玄関で朝の散歩から帰ってきた上品そうな老夫婦に挨拶された。

すっかり昇った朝日に龍一は目を細めた。駅の方角へ歩きながら、公園が一つとスーパーが一つあることに気づいた。しばらく腰を落ち着けるなら住みやすそうなところだ、と思った。手頃な定食屋でもあればもっといいのだが。

 昨日とは違うパールホワイトの塗装がまばゆい自家用車がコンビニの駐車場に停めてあった。傍らで崇が「よう」と言いながらひらりと掌を見せた。

 「あれはどこまで読んだ?」車を滑らかに発進させると同時に、崇が口を開いた。

「全部読んだ。内容も頭に入れた」

「ほう」ハンドルの操作に淀みこそなかったが、崇が一瞬、ちらりとこちらを見た気がした。

「何がわかった?」

「『カドゥケウス財団』という名前が何度か出てきた。北米系の医療産業複合体だったと思うが」

 「そうだ。ITOHブレインテック、小川ヘルスケア、SATOメディカルラボ、篠田化成、高村ナノファブリカ......ま、とにかくここ数年で急上昇している医療関連企業はどれもその肝煎りだし、それを言うなら未真名市自体が財団や財団傘下企業の『城下町』みたいなもんだ」

 「そうだったのか。俺はひたすら金の流れる先を見続けてきたから、この街の成り立ちまでは頭が回らなかった」

「じゃ、今からでも遅くはないから注意を向けるようにしろ。会社ってのは、森のきのこみたいに生えてくるわけじゃないからな」

朝の光を浴びた街が色づき、息をし始めていた。眠そうな目でバスに乗り込んでいく学生たち、走る自律自動車の中で仮眠を取っている営業マン。崇の運転はそれらの脇を滑らかに通り過ぎる。

「あの年から十数年、歴史の一大イベントとは無縁だった鄙びた港町に膨大なリソースが裂かれ、一大産業都市に生まれ変わらせた......今じゃ日本有数の一大産業都市、政令指定都市でもある」

「その中にちょっとばかり後ろ暗い金の流れがあったところで誰も気に留めない......企業は喜ぶ、市民は喜ぶ、財団は喜ぶ。じゃいいじゃないか、って話だな。何だ、俺は邪魔者かよ」

すねるなよ、と崇はちらりと笑った。「そうだな。問題は、奴らが後ろ暗い『何か』に手を出しているからって、誰もそれが暴かれるのを望んでないってことだ。財団理事が未真名市警察署長の前でパンツを下ろしでもしないかぎり、逮捕は無理だろうな......それにお前も気づいているとは思うが、ご当主の目的は社会的制裁じゃない」

龍一は頷いた。「それで?これから何をすればいい?」

崇はまた薄く笑った。「朝飯はまだだろ?食いながらそれを詰めようじゃないか。この近くに旨い朝粥を食わせる店があってな」

犯罪工学の少女【1】半島から来た男

「来ないな......」

「ぼやくな。アポを取ってるわけじゃねえ」

室内に火の気はなく、床に敷いた毛布と懐の使い捨てカイロ以外身を温める術はない。

暖房も照明もない薄暗い部屋に二人が陣取ってから数時間。カーペットすらないフローリングの床は想像以上に冷たく、カイロがなかったらとっくに腹を下していただろう。調理のための火すら起こせず、二人はチョコレートバーをかじって耐えた。

「毛虱の話、もうしたっけ?」

「あんたがろくでもない場所で移された話だろ......そんなの聞かされて、俺にどんな顔をしろってんだよ」

「好きな顔をすればいいだろ。満面の笑顔でも眉根を寄せた切なげな顔でも」

「どれも億劫だよ」

頭もろくに上げられない以上、崇の愚にもつかない話以外に暇を潰す方法がなかったのも確かである。仕事とは言えいつまでこんな苦行が続くんだ、と龍一が本気で思い始めた頃、

「来たぜ」

ノートPCの画面を覗き込んでいた崇の目が鋭くなる。画面には、ゲート前に停まった一台の車、運転手が詰所の警備員に身分証を見せる様子が映されている。車はすぐに動いたが、警備員の緊張した様子ははっきりうかがえた。

「そいつの右耳を拡大しろ。そう、その角度からだ。……止めろ」

 相良龍一は腹這いになったまま、望月崇の指示通りノートPCに接続したトラックボールを操作する。龍一がトラックボールを介して操作するノートPCは窓際の伸縮式マスト――バードウォッチング用の伸縮・首振り自在なモーター内蔵型だ――につながり、さらにその頂点に取りつけられたデジタルカメラの映像を映している。

車はすぐゲートの内側に滑り込んでいったが、龍一はウィンドウからちらりと覗いた男の顔を捉えることに成功していた。整えられた髪、色白で細面。あまりスタイリッシュと言えない黒縁の眼鏡。

「……警備員と同じハンズフリーの無線機を使ってる。軍や警備会社御用達の多重チャンネル方式、暗号化・電波妨害にも強いタイプだ」崇は溜め息をつき、ごろりと横に寝転がって天井の梁を眺めた。「最近やけに警戒レベルが上がってやがると思ったら、奴が絡んでやがったか」

「知った顔か?」

「キム・テシク。裏社会専門の、それもヤの字から信用を勝ち取っている奴なんてそういない。ましてマルスの息がかかったフロント企業のな」

「半島からの客人、か」

「『動乱』の時に祖国を捨ててきたんだろ。今にふさわしくない過去のある奴なんてこの街にはごろごろいる」

「この国でセキュリティ業の需要なんて……」言いかけて龍一は苦笑する。「愚問か」

「メリケンみたいに兵役経験者がごろごろいるわけでもないし、警官や自衛官でもないのに警備員へ大っぴらに飛び道具は持たせられないしな。そういう意味じゃ、この国はまだまだ平和よ」

龍一は画面を巻き戻し、男の顔を拡大した。色白。秀でた額と通った鼻筋。唇は薄く、彫りは深い。厄介かも知れない――理屈でなく、そう思う。「で、どうする。作戦は練り直しか?」

「馬鹿言うな。練り直しどころか、ゼロからだよ」

「......ってことは、今日の俺たちの苦労は……」

「無駄骨だな。高塔百合子は必要経費プラス足代ぐらい出すだろうが。不満だったら一人で殴りこんで来い。止めねえから」

「するもんかよ」

暗くなるのを待って、二人は監視に使った仮住居を撤収した。

麓に降りた頃にはすでに暗くなっていた。一日の安堵と疲労を顔に張り付けた人々が帰路に着いていた。自分たちの徒労に終わった、しかもとても人に言えない仕事を思い起こすと、羨ましくならなくもなかった。

「腹が減ったな……」さすがに崇も疲れたか、運転席で首をごきごきと鳴らしている。「ご当主への報告は後で俺がしておくから、飯でも食ってけよ」

「ありがとう。でも、この辺で下ろしてくれ」

「遠慮すんなよ。俺の懐具合なんか気にしてないだろうな?そういう気の遣われ方、かえって癇に障るぞ」

「別にそういうわけじゃ……」龍一は苦笑しかけて、ふと眉をひそめた。

「どうした?」

「気のせいかな……誰かに見られたような気がする」

 

――寸分の狂いもなく、キーを叩いていた細くしなやかな指が止まる。

「現在予測率50パーセント。ギャンブルなら立派だけど、『工学』と呼べるレベルにはほど遠い数字よね」

広々とした車の後部座席。彼女は指を唇に当て、笑みの形になっているのを確かめる。「星座や血液型占いとはわけが違うもの。『偶然』なんて言葉じゃ、あなただって納得できないでしょ?」

犯罪工学の少女【プロローグ】朗読劇

夢の中で、私は5歳に戻っている。目隠しをされ、口に布を噛まされ、両手両足を椅子に固定された5歳の少女に。身をよじったが、手の縛めはびくともしない。不思議と恐怖は感じなかった――ただ頭の片隅で、おしっこに行きたくなった時困るな、とは思う。人を呼ぼうにも猿轡のせいで呻き声ぐらいしか出せそうにない。

左頬に熱と、空気の揺らめきを感じる。暖炉、だろうか。そうだ、時々何か――乾いた木が木が焦げる小さな音が、燃えてぱちりと弾ける音がする。それ以外に音は全くない。人の声も、電子音も、空調音すら聞こえない。防音設備の中にいるように、外を走る車のエンジン音や、雨風の音なども聞こえてこない。恐ろしく静かだ。

 

ドアの開く音、複数の靴音。私は身をすくめるが、足音の群れは無視するように目隠しされた私の前を素通りする。椅子を引く音、腰を下ろす微かな軋み。入室者たちは静寂そのものだった――何かの災いを恐れるように。話し声どころか咳一つ聞こえてこない。幽霊みたい、とちらりと思う。

「ヒトの情動はヒト自身が思っている以上に機械的なものである。人工知能の研究とは、すなわち人の思考をオブジェクト化する研究との同時進行でもあった」

いきなり誰かが口を開き、私は怖がる以前に面食らった。若くはないが歳を取りすぎてもいない、壮年の男性の声。私の父より少し年上ぐらいだろうか。

「良心や悪意、嘘や嫉妬といった『人間らしい』感情の大半は、実は大脳の生理運動で説明がついてしまう 。人間らしいか、そうでないかが重要なのではない。おそらくは『人間らしさ』という基準そのものが、そもそも信頼に値しないのだ。今日に至るまで世界の紛争は、経済格差と民族間抗争がその大半を占める。理解できない他者への恐怖とセキュリティ意識の暴走、と言い換えてもよい――だがしかし、己が苦痛をそっくりそのまま他人に転写できる技術が産み出された暁には、その時こそ地上は、生きとし生ける者の腸から引き千切った悲鳴で溢れ返ることだろう」

かさり、という微かな音が聞こえた。紙束をめくる音だ。紙に書いた文章をそのまま朗読しているらしい。私に読み聞かせているのだろうか?しかしその声には、紙の上の文字を読むという以上の意志を全く感じ取ることができなかった。悪意さえも。

 「自然から切り離された人間はもはや野外では生きていけない。一定数以上に膨れ上がった集団は、必ず都市を指向する」

今度は私の母よりずっと若い女性の声。また、かさり、と紙束をめくる音。

 「ヒトは都市に縛られ、都市はヒトを歪め作り変える。オブジェクト指向に突き動かされる母集団の人口比率を操作することにより都市そのものを操作することは、困難ではあるが、不可能ではない。彼ら彼女らは誰かに命じられるまでもなく断崖絶壁へ向けて行進を始めるだろう――強制されたわけではない、これはまごうことなき『私』の選択だと思い込みながら。〈ハーメルンの笛吹き男〉に導かれる、鼠の大群のように」

アラン・チューリングは『考える機械』を創造し、ヴァニヴァー・ブッシュは機械による人の知能増大を提唱した」

さらに別の声、若い男の声。

 「森羅万象をシミュレートできる装置は存在しない――ただしそれは現時点では存在しないということであり、永遠に否定し得るものではない。その誕生の時こそ、我々はデジタル的思考とアナログ的発想を並列しうる非ノイマン型コンピュータの登場を、真の意味でのデウス・エクス・マキナ、『機械仕掛けの神』を目の当たりにするのかも知れない。もっともそれはヒトが――今だに『知性』の何たるかを完全に定義しきれていないヒトが、それを理解できるかどうかは、また別の話だ」

最後の声の主が口を閉じるのとほぼ同時に、複数の人数が立ち上がる音が聞こえた。紙をまとめ、端をそろえる音。置物を動かす音。暖炉に紙の束を投げ込むばさばさという音。掃除機を絨毯にかける音も聞こえる――それから足音の群れは再び私の前を横切り、一言も発せずドアを開けて部屋を出て行った。

目隠しを透かして、部屋の照明が消えたことを知る。

暖炉の火も落とされたのか、室内がしんと冷えてきた。

5歳の私は暗闇に残される。

 

夢はそこで終わり、私は見慣れた自室の天井を見つめる。かざした手に目の焦点を合わせることに苦労する。私は夢を見ていたことを知り、そしてすぐ、あれが夢でなかったことを思い出す。

 

あれがただの夢だったら。

私の人生は、どのようなものになっていたのだろう?